「サッカーがくれたもの」武井翔暉
まず初めに東京農業大学農友会サッカー部を日頃より応援、支援していただいてる皆様ありがとうございます。
声量がバグっているためどこにいるかすぐに分かる
佐藤大晟選手からご紹介頂きました。
東京農業大学 国際食料情報学部 食料環境経済学科
走り始めたら勝手にペースが上がってしまい何でもやり過ぎてしまう
農大1のスペ体質を持つ武井翔暉です。
長く纏まりの無い分になってしまったので、途中まででも読んでもらえたら幸いです。
(長くなりすぎてしまったので、半分以下まで削りました)
書き始めて最初に、改行をどのくらいすれば良いのか分からなかったため
読みづらくなってしまっていたら申し訳ございません。
最初で最後のブログで今までのサッカー人生を振り返りました。
〜サッカーがくれたもの〜
幼少期
兄がサッカーをしていた影響で、家から5分もかからない地元のチームでサッカーを始めた。
初めの頃はじゃんけんで負けてキーパーをやった時に、あまりにもボールが来なさすぎて試合中にゴール前で寝ているような少年だった。
それでも続けている内に、サッカーが大好きになり、生活の中心になっていった。
小学校低学年のときは、チームの練習が無い日にも家の前で近所の先輩と毎日夜遅くまでボールを蹴った。
ただ楽しくてボールを蹴っていた。
高学年になると、スクールなどに通い週7日練習のサッカー漬けだった。
走りの多いチームだったことや、7日練習していたこともあり、腰椎分離症になってしまった。
それでも、オーダーメイドでコルセットを作り、毎日サッカーをする事はやめなかった。
ドリブルで無双するのは毎試合のことで、キーパーでハットトリックしたこともあった。
何人来ようと抜ける気しかしなかった。
このころ「怪物」や「化け物」などとチームメイトやコーチから呼ばれていた。
自分で言うのもなんだが、周りと比べて完全に頭抜けて上手かった。
試合後に相手チームの選手からサインや写真を求められる事もあった。
中学校に上がるタイミングで6つのJクラブからスカウトをもらった。
嬉しかったが、迷うから1つだけにしてくれよと我儘な少年だった。
本気でメッシを超える世界一のドリブラーになれると思っていたのが小学生時代。
中学
頂いたオファーの中から、FC東京u15深川に入団することを決めた。
声を掛けてくれたタイミング、電車で乗り換えがなく1本で行けることを理由に入団を決めた。
川崎市民なのに東京に行ったため、地元の友達からはよく裏切り者とイジられた。
小学生の頃から有名な選手が多くいたが、常に自分が1番だと思って毎日練習をしていた。
それくらい自分に自信しか無かった。
深川では毎週火曜日に3000m走をしてから練習だった。
小学校の時に走りが多く、毎回ではないが試合前に走って速かった11人がスタメン。
というようなチームだったため体力にも自信があった。
けど最初の測定では2位だった。
負けず嫌いの自分はこの時に絶対次からは負けないと心に決めた。
2回目以降、1位の座を譲ることはなかった。
この頃は9分40秒台で3000mを走っていた。
試合では、ボランチが4人いる中でも常に試合に出続ける事ができた。
2年生になってからは上の学年で試合に出続ける事ができた。
3年生を含めても自分が一番試合に出ていた。
最終学年になってキャプテンを決めるミーティングの際に、自分の名前が挙がった。
深川のキャプテンは他のどのチームよりも重いものだと今でも思っている。
そのため、責任をおいたくないという想いがあり直ぐに断った。
たらればの話になってしまうが
自分がこの時に逃げずにキャプテンになっていたら、今の自分の立ち位置や状況も少しは変わっていたのかもしれない。
2年生からAチームで出続けていたため、当然のようにユースに昇格できると思っていた。
プロになれるのは当たり前、そこからが勝負だとも思っていた。
しかし3年生になって、引っ張る力や仲間とのコミュニケーションがこのまま変わらなければ上げることは出来ないと言われた。
変化を求められていた。
自分はプレー中も感情を出すタイプでは無かったが、それまで以上に声を出すように意識した。
その結果、昇格をする事ができた。
この3年間が人として最も成長する事ができたと思う。
本当に人間性を大切にしているチームで、このクラブに入って良かったと思った。
高校
1年目から試合に出て活躍するイメージをしてユースに上がった。
しかし、思い描いていたストーリーとは真逆のユース生活になり、人生で初めての挫折を経験する事になった。
1年生のときはチームが日本一になる中全く試合に出る事ができなかった。
ユースに上がっても何となくやれるだろうと思っていた。
そんな自分には重い現実だった。
そんな現実を突きつけられた中で、トップチームの練習に参加する機会が巡ってきた。
当時のトップチームのメンバーはスタメンが殆ど全員、代表経験のある選手でベンチメンバーにも日本代表になったことのある選手がいた。
この中で何か爪痕を残して帰ろうと練習に参加した。
ボール回しから紅白戦まで、自分のプレーを出す事ができ、かなり好感触だった。
トップチームの練習に参加させてもらえたことで、自分にもやれると自信を持って帰ることができた。
その後、2年生になっても簡単に序列が変わることはなく、かなり苦しんだ。
それでも、プレミアリーグで何とかベンチに入った。
しかし、この年は人生で一番の大怪我をする事になる。
經腓靭帯断裂をし、医者からあと数年後に同じ怪我をしていたらサッカーはもう出来なかったと言われた。
ギリギリで選手生命が繋がった。
そこから約2ヶ月間の入院となった。
3年生になってもリハビリは続き、UAEまでリハビリをしに行くこともあった。
長いリハビリを経て、復帰をしてもコンディションが戻らず、思うようにプレー出来ない自分にまた自信を無くしてしまうようになった。
復帰して1週間でリハビリに戻るということを繰り返す日々。
本当に苦しかった。
それでも度重なるリハビリを乗り越えて、Bチームのリーグ戦にボランチでスタメン出場する事ができた。
自分の中では納得いくプレーでは無かったが、試合後にスタッフやチームメイト、サポーターの方から賞賛の声を頂いた。
リハビリで苦しい事が多かった分、本当に嬉しかった。
そして、次節のAチームのリーグ戦であるマリノス戦で自分がメンバーに入ることを伝えられた。
しかし、また怪我をしてしまいメンバー外に。
やっと皆んなとサッカーが出来ると思っていたのに、またかとかなり落ち込んだ。
そんな感じで怪我を繰り返している内にユースでの生活は終わってしまった。
大学
高校で思うようにプレーが出来なかったから、大学では自分のプレーを沢山の人に見せようと決意していた。
大学を選ぶ上で
当時の自分のコンディションでは関東一部だと一年目から試合に出れないと考えた。
そのため、1年目から試合に出るためレベルを下げてこの大学を選んだ。
しかし、入学前の練習で肉離れ。
その後も怪我を繰り返し、4年間でまともに戦えたシーズンは無かった。
どんどん減っていく同期を横目に、自分は何をしているんだろうと思う日々。
そんな日々の中でも、サッカーの事を考えない日は無かった。
毎日、復帰した姿をイメージしながらグランドに行っていた。
そうすると、必然的に筋トレをするようになっていった。
オーバーワークになる程追い込んだ。
1年生の頃の細い写真を見て
晋太郎は「細っ!別人じゃん!」とよく爆笑しながら馬鹿にしてくる。
筋トレだけが継続できたと胸を張って言うことができるものになった。
4年間リハビリだったが、特に4年生になってからの1年間は時が経つのが早かった。
3年生の7月の頭に右膝を怪我した。
痛いながらも上げをやり、歩いて1対1をやった。
意外と歩いてでも体の使い方と股を抜くことで1対1でも勝つ事ができた。
歩いて1対1をしていたから夏稀がめっちゃ笑ってたのを覚えてる。
やっぱり限界がきてお願いをしてリハビリに入ることになった。
2、3日休めば復帰できるだろうと思っていた。
しかし、現在まで長引く重症だった。
1番サッカーをしたいシーズンに何もできずに時が過ぎていく。
言葉や表情には出さないが毎日焦っていた。
風呂やベッドで涙ぐむ日もあった。
そのままシーズンが終わってしまった。
高校に続きリハビリで引退を迎えた。
同期がやり切った表情でサッカーはもう終わりと言っている中で、自分だけが何もやりきれておらずやるせない気持ちだった。
シーズン中、自分が出てもいない試合を練習試合も含めて全試合フルでビデオを見て、復帰をイメージしていたが自分が出場すことは無かった。
慶人には暇人じゃんと毎回いじられていた。
リハビリ中、練習を見ながらこのレベルなら復帰したらすぐやれると本気で思っていた。
1年以上のリハビリを経て、復帰できた期間が少しだけあった。
走りは得意で、今まで数ヶ月のリハビリ後も上げの走りは余裕で走って1番だった。
オブラでは速く走りすぎて、ペースを落とすように怒られるくらいだった。
だから今回もいけるだろうと舐めていた。
そんな思いとは裏腹に初めの練習で、体が動かず息もすぐに上がり、こんなにも動けないのかと絶望した。
5往復では皆んなが残り1往復ある時にゴールする程速かったのに、今では1往復や2往復の走り1本で限界になるまで衰弱しきっていた。
この期間の走りで、遅すぎて蛭子さんに怒鳴られた時は本当に死ぬほどウザかった。
走りで怒られるのは初めてだった。
それでも、リハビリ明けとか関係なく、皆んなと同じように怒ってくれた蛭子さんには感謝している。
怒ってくれていなかったら
きっとリハビリ明けだからと甘えていたと思う。
だから本当に強く言ってくれて良かった。
正直、リハビリ期間が長引くにつれて自分の復帰を望まなくなってきていることは感じていた。
そんな中でも
葵作がLINEしてくれたり
会った時に早くプレー見たい、翔暉くんのプレー好きだから
と言ってくれて、復帰して絶対自分のプレーを見せないといけないなとずっと思っていた。
青汰が大学の練習に参加して1番上手いと思ったの翔暉くんですって伝えてくれたのも嬉しかった。
リハビリ中に行き詰まった時に榛人が相談に乗ってくれたのも助かった。
急遽試合のメンバーに入った時に、好輝が試合頑張ってくださいってLINEをしてくれたり、癒音が復帰するまで諦めるなってLINEしてくれて皆んなの支えを凄く感じた。
引退が近づいた10月には
里玖が早く復帰して一緒にボランチ組もうって言ってくれて本当に復帰しなきゃと思った。
皆んなふざけてお前がいれば勝てる、早く復帰して試合に出てって言ってくれて、単純な自分はそれだけで嬉しくてリハビリをする原動力になっていた。
リハビリ期間中は、家に帰ってからも沢山走った。
新たに肉離れを起こすまでは、毎日クーパーを走っていた。
バイトから帰ってきたら、玄関でお母さんが練習着を持って待っていて帰って10秒でクーパーをしに行ったこともあった。
何日連続でやったか分からないくらい。
毎週、整骨院と病院にも通い、学校のジム以外にも家の近くのジムに筋トレをしに行った。
夜は今まで以上にストレッチをした。
毎日キツかったけどキツくなかった。
皆んなとサッカーがしたいと思っていたし、復帰するのが楽しみだったから。
結果的に、皆んなとサッカーをする事は出来なかったけど目標があることで、こんなにも継続する事ができた。
心から皆んなの事が大好きなんだと分かった。
同期だけでなく、後輩も皆んなが大好きだった。
今までの人生で一番辛い別れになると思うけど、この先壁にぶつかって躓いたときに思い出すのは皆んなの事だと思う。
サッカーがくれたもの。
それは人生で最も掛け替えのないものだった。
ありがとう。
児玉さん
最後の最後まで力になれず、お荷物ですいませんでした。
試合後や練習後のミーティングでの熱い言葉、しっかりと響いてました。
プレーで結果には残せませんでしたけど人として成長できたと思います。
ありがとうございました。
蛭子さん
蛭子さんには怒られてばかりでした。
ダブルボックスで5-0で負けた時に自分が出てる回では失点していなかったからと榮村と笑っていた時に怒られたのが1番印象に残っています。
補強の時に、チューブで目を開けていたら怒鳴られて自分も周りもビックリしていました。
あれは、ちょっと理不尽だなと思ったけど自分に期待してくれてるのかなと自分なりに解釈して受け入れてました。
怪我ばかりで期待に応えられず、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
怒られた時はうるさいなと思うこともありましたが、全て自分の為に言ってくれていたという事は理解してます。
本当にありがとうございました。
徳さん
入学する前からリハビリで最後もリハビリで4年間お世話になりました。
迷惑ばかりかけたと思いますが、リハビリ期間を一緒に過ごせて楽しかったです。
本当にありがとうございました。
山さん、ブーさん
初めての手術を経験して、長期のリハビリになりましたがつきっきりで一緒にリハビリをしてくれてありがとうございました。
本当に沢山迷惑をかけたと思いますが、卒業後も心配をしてくれて本当にありがたかったです。
復帰できた時は本当に嬉しかったし、感謝の気持ちでいっぱいでした。
NPOエンジョイSC・FC東京u-15深川・FC東京u18
指導者の皆様
ご指導を頂きありがとうございました。
サッカーを通して、プレーヤーとしてだけでなく1人の人間としても大きく成長する事が出来ました。
ありがとうございました。
サポーターの皆様
深川時代からユースを卒業してまでも応援をして下さり、本当にありがとうございました。
プレーしている姿を見せたかったですが、怪我をしすぎてプレーしている所を見せられなかったのが心残りです。
本当にありがとうございました。
里玖、廉
中学生の頃から今までありがとう。
里玖と廉がいたから大学生活がより豊かで充実したものになりました。
廉はいつも、翔暉ボランチの方がいいよって言ってくれてたね。
里玖は、翔暉とサッカーしたいってずっと言ってくれてたね。
3人で中盤を組みたかったけど、俺のせいで叶えられなくてごめん。
4年間で唯一だけど、FC東京u-18戦で一緒に試合に出れたの嬉しかったよ。
コンディション悪い状態で迷惑しかかけなかったけど。
本当に2人がいて良かった。
ありがとう。
お父さん、お母さん
今まで、何不自由なくサッカーをさせくれてありがとう。
怪我をした時に言われるのが嫌で、一回も怪我をした事を自分からいう事が出来ずにごめんなさい。
練習をしていない日も脛当てを洗っていました。
毎回、廉の親から情報を聞いていたのは知ってるよ。
1番近くで応援してくれてたのに、最後までプレーを見せれなくて本当にごめんなさい。
怪我をする前のプレーしか知らないから、いつも翔暉だったら...って言ってたね。
復帰した姿も見てもらいたかったです。
就職するかサッカーを続けるか迷っている中で、どちらの道でも良いよって言ってくれて助かってます。
これからも、迷惑を沢山かけると思います。
いつになるかは分からないけど少しずつ恩返しをしていくので待っていて下さい。
一先ず、今までありがとうございました。
長文になってしまいましたが、最後まで読んで頂きありがとうございました。
次回のブログは、
いつも僕の事を褒めてくれる
やる時はやる男
オシャレすぎる農大のストライカー
初田来音選手です。
お楽しみに!!!
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