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2025

4年生引退ブログ〜目黒雄大〜

4年引退ブログvol.6

『酸いも甘いも』

目黒 雄大(栃木SC U-18)

はじめに、日頃より東京農業大学農友会サッカー部を応援・ご支援してくださっている皆様、本当にありがとうございます。

 

この場を借りて、御礼申し上げます。

 

 

 

4分間でハットトリックを達成し、「レヴァンド響」の異名を持つ溝口響からご紹介にあずかりました。

 

 

 

今シーズン、副将を務めさせていただきました、

地域環境科学部 地域創成科学科 目黒雄大です。

 

「逆張り」と言われすぎて、最近は何が逆張りなのか自分でもわからなくなってきました。

 

響、人からもらった食べ物を絶対に「おいしい」って言わないのも、だいぶ逆張ってると思うよ。ね、晃太朗。

 

そんなことはさておき。

本来なら幹部は最後の方に回ってくるものですが、構成作家である菅又賢人の

「お前は熱いことを書かなそう」

という独断と偏見によって、この順番で書かせてもらっています。

(悠天、引退した後に副将をクビになったわけではないからね)

 

ブログなんて、この先もう書くことはないと思うので、これまでを振り返りながら、そのときの感情のままに書いていこうと思います。

 

長く拙い文章ですが、時間があるときにでも一度読んでいただければ幸いです。

 

それではスタート!

 

 

 

〜酸いも甘いも〜




4歳上の兄の影響で、7歳からサッカーを始めた。

小学生の時は試合に出られないこともなく、関東大会に出たり、上の学年でプレーさせてもらったりと、ありがたい経験をさせてもらい、大きく悩むこともなく、ただ純粋にサッカーを楽しめていたと思う。

 

 

 

中学に上がるタイミングで、自分自身のサッカー人生の大きな分岐点となる

栃木SC U-15のセレクションに合格し、入団することになった。

(きっとここで合格していなかったら、大学までサッカーはやっていないと思う。)

 

 

憧れのクラブでサッカーができるという期待感とは裏腹に、サッカー人生で初めての挫折を味わった。

 

 

1・2年生の頃はある程度試合にも出てプレーできていた。

しかし、最後の1年間は全く試合に出ることができなかった。結局出られたのは1試合だけで、それも延長戦の30分くらい。

 

この1年間は、プレーをすること自体が怖かった。

「ボールを受けたくない」

そんな気持ちを抱えながらプレーしていた。

 

 

 

それでも、ユースには昇格することができた。

(なんで上がれたのかは、今でもよくわからない。)

 

ありがたいことに、ユースはA・Bの2カテゴリーがあったため、1年生の頃からBチームではあったが試合に絡むことができた。

その後、徐々に序列も上がり、2年の夏頃にはAチームに絡む機会が増えた。

 

3年になり、スタメンとして試合に出ることはできたものの、自分たちの代では県リーグ2位、クラブユースも出場できず、何も結果を残すことができなかった。

 

 

 

大学は高校1年の頃から農大に行こうと決めていた。

ユースの先輩がいたこと、高校の先輩である菅又勇人さん(賢人の兄)のおかげで指定校枠があったことが理由だ。

 

「1・2年で土台を作って、4年生になった時に試合に出られればいいな」

そんな想いを持って入学した。

 

けれど、現実は予想していたものとは180°違っていた。

 

1年時に社会人リーグ、2年時にはIリーグと関東リーグと、全てのリーグを経験させてもらうことができた。

「社会人リーグ生まれ、Iリーグ育ち」なんて紹介文もあったりして、あれはすごく嬉しかった。(明也くん、本当にありがとうございます。)

 

この頃はなんのプレッシャーもなく、のびのびと自由にプレーさせてもらっていた。

こうした環境を作り出してくれていた3・4年生には感謝しているし、今でも頭が上がらない。

逆の立場になった今、改めてその凄さを実感している。

 

「このままいけば、残りの2年間でも関東リーグに関わっていけるだろう。」

そんなことを、頭のどこかで思っていた。

 

結果として、この2年間で関東リーグに関わったのは、共栄戦でベンチに入った一回のみだった。

 

 

 

 

1年

 

練習についていくのに必死の毎日だった。

高校よりも強度もフィジカルもまるで違う。毎週ある「上げ」は今よりずっとキツかったし、前日くらいからものすごく憂鬱だったのを覚えている。

 

徐々に社会人リーグにも出られるようになり、トップで練習する機会も増え、少しずつ自信をつけられた1年だった。

 

 

 

2年

 

主戦場はIリーグだった。

 

正直、ものすごく楽しかった。

チームとしてうまく噛み合い、「こんなにもサッカーって面白いんだ」と感じるようになり、毎週試合をするのが楽しみで仕方なかった。

 

後期もIリーグを戦う中、突然関東リーグの共栄戦ベンチに入ることになった。

そこから全ての試合でベンチ入りした。

 

城西戦の前日に色々あって、スタメンのチャンスが来た。

 

当日、緊張はあったものの、パフォーマンスもそこまで悪くなく、自分のできることは最大限出し切った。

 

けれど結果は1-6。

「関東2部に昇格するチームとは、こんなにも差があるのか」と痛感したのを今でも覚えている。

 

結局、試合に出たのはこの1試合だけ。

あとはベンチからずっと眺めている日々だった。

 

最終節の慶應戦。

勝って残留が決まった時は嬉しかったが、同時に悔しさもあった。

1年間Iリーグで戦ってきた響やりっくん、明也くんがピッチでプレーしている姿を見て、羨ましさもあった。

 

だからこそ

「来年は絶対に関東でプレーする」

そう強く思っていた。

 

 

 

しかし、3年。

公式戦に1試合も出ることができなかった。

 

トップチームに定着できず、行き来を繰り返す日々。

 

「自分の方がいいプレーしてるのに」

「なんであいつの方が上なんだ」

 

そんな想いを抱えながらプレーをしていた。

 

 

 

夏オフが明け、合宿前の練習での紅白戦。

ロングボールを競る直前に相手にぶつかられた。ぶつかっただけだと思ってプレーしようとしたが、足に力が入らなかった。

 

診察結果は、腓骨と脛骨の骨折だった。

 

病院の先生や高津さんには「サッカーでここを骨折する人は初めて見た」と驚かれた。

「車に横から突っ込まれたの?」なんて聞かれたりもした笑

 

 

この一年は明らかにベクトルが自分に向いていなかった。

 

児玉さんがよく

「調子の良くない時に何ができるかが大事」

と言っていたのに、全てを他責にしてしまっていた。

 

 

結局この年はこれでシーズン終了。

 

 

 

4年

シーズンが始まるタイミングで、副将になった。

正直、自分でもよくわからなかった。

 

試合に多く出ているわけでもないし、前に出て発言するタイプでもなかった。

周りからも「なんで副将なの?」なんて言われることもあった。

 

キャプテンの堀井を含め、他の3人とは違う自分の役割はなんだろう。

それがずっと心の中にあった悩みであり疑問だった。

 

 

それでも、オフ明けからはトップサブとして練習試合に出ることが多く、

プレーもコンディションも悪くなかったと思う。

 

そんな中で、社会人の登録メンバーが伝えられた。

 

 

 

「あれ、名前がある。関東リーグは登録外?」

 

理解にすごく苦しんだ。

トップサブで試合に出ていたから、当たり前のように関東リーグに登録されるものだと思っていたから。

 

関東リーグが開幕し、チームはなかなか勝てない状況。

自分は関東リーグのメンバーどころか、トップチームにすら上がれずにいた。

 

気づけば、いつの間にかCチームにいた。

 

「サッカーが面白くない。」

「もうサッカーを辞めようかな。」

 

そんなことを思いながらプレーをしていた中で、

5月にまた怪我をした。

 

 

一年で二回目の長期離脱。

最後の一年だったからこそショックは大きかった。

 

 

 

ただ今思えば、このタイミングでの怪我は、ある意味で良かったのかもしれない。

あのままネガティブな感情を持ったまま続けていたら、チームに迷惑をかけていたかもしれない。

 

この期間にあった児玉さんとの面談の中で、2つの言葉を伝えられた。

 

「何のためにサッカーをやっているのか。残りの期間をどう過ごすのか。」

 

 

「評価をするのは自分じゃなくて他人。」

 

この言葉を聞いて、これまでの自分は「自分が良ければそれでいい」選手だったなと気づかされた。

 

 

 

少し視野を広げて周りを見てみると、

 

どんな時でも選手のために支えてくれているマネージャーがいて、

 

自分よりも大きな怪我で苦しんでいる仲間がいて、

「仮病じゃん」といじってくるやつや、早く一緒にサッカーがしたいと言ってくれる後輩がいた。

 

副将として何ができるのか

怪我の期間でもやれることはなにか。

 

 

 

「自分の役割は何か。」

 

 

 

色んな葛藤があったけれど、この怪我の期間を通して、一つだけ明確になったことがある。

 

 

 

それは、

後輩たちがプレーしやすい環境を作ることと伝え方を工夫することだと思うようになった。

 

下のカテゴリーはトップに比べて下級生が多い。

だからこそ、自分が社会人やIリーグでしてもらったように、自由に、気負いなくプレーしてほしいと思った。

 

それから多くの選手と会話をするようにした。

伝え方も、蛭子さんが言うように、一人ひとりのタイプを考えながら伝えるようにした。

(朝鮮大学戦で強く新くんに言われて怯えちゃう丹野とかいるからね。)

 

9月に復帰してから、試合に多く出られたわけではない。

練習試合が数試合。フルで出た試合は、最後の社会人だけだった。

 

引退試合の日アウェーの中、全員応援してくれている仲間がいて、

「絶対に勝利を届けなくちゃいけない。」

そう強く思ったし、それが自分たちにできる最大限のことだと思った。

 

 

 

1-0

なんとか勝ち切れた。

 

 

 

 

試合が終わった後

 

たくさんの声をかけてくれる後輩たち

泣いている溝や響を見て、

「勝てて良かった。」

心からそう思った。

 

 

 

最後の最後にようやく、児玉さんの言っていた

「誰かのためにサッカーをしてみれば」

という言葉の意味を理解することができた。

 

 

 

 

「なんのために大学サッカーをするのか」

 

 

 

入部当初言われた言葉の正解にたどり着くまで4年もかかった。

 

 

寄り道も遠回りもたくさんした。

もしかしたらもっと早く答えにたどり着けたかもしれない。

 

 

ただそのおかげで多くのことを経験することができたし、

精神的にも、人としても成長することができた。

 

 

酸いも甘いも味わった4年間だった。

 

 

尊敬するところしかない先輩たちと

 

 

かわいくて頼りがいのある後輩たちと

 

 

沢山支えてくれた同期たちと

 

一緒にサッカーができて本当に良かった。

 

 

 

農大サッカー部に入って本当に良かった。

 

 

心の底からそう思う。

 

 

そして、これまで多くの人たちに出会わせてくれて、たくさんの経験をさせてくれて

ありがとうサッカー

 

 

長く拙い文章になってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

 

最後に

 

同期のみんなへ

 

この4年間毎日本当に楽しかったです。

やるときはやる、そうじゃないときはふざけるオン・オフの切替が早く

ほかの学年に比べて仲が良く、本当に居心地がよかった。

ただ言わないとといけない場面では、強く言える集団でもあったと思う。

自分の良くない部分、直さないといけないところ沢山言ってくれてありがとう。

この一年間うまくいかないことのほうが多かったけれど、最後までこのメンバーでやり切れて嬉しいです。

もう金曜の練習後に居酒屋(食堂)で話せないのが寂しいけれどこの学年でよかったと心から思う。4年間本当にありがとう

 

 

 

農大スタッフの方々

 

4年間ご指導ありがとうござました。

色々な経験をさせてもらいました。時に理不尽だと思うこともありましたが、全部自分のためを思っていってくださっているのだと今になって感じています。

プレイヤーとしてだけでなく、人としても成長することができました。

ありがとうございました。

 

 

 

栃木SCアカデミーの方々

6年間ほんとにお世話になりました。

多くのことを学び、栃木SCの一員としてこのエンブレムをつけてサッカーをできたこと誇りに思います。

もう一度このエンブレムをつけて戦うことはできませんでしたが、これからは1ファンとして応援させていただきます。

本当にありがとうございました。

 

 

 

FC みらいのスタッフの方々

卒業した後も進路先など気にかけていただきありがとうございます。

サッカーを楽しむことを忘れちゃいけないこの指導のおかげでここまで続けてこられました。ありがとうございました。

 

 

 

後輩のみんなへ

 

 

これから先うまくいかない事、納得いかない事これからたくさんあると思う。

時には、サッカーをやめたい、距離置きたいと思うこともあるかもしれない。

 

そういう時外にベクトルが向くことが多いと思う。

うまくいかない時こそ自分にベクトルを向けて何ができるのかを考えて行動してほしい。

 

そうすればきっといい方向に進めると思うから。

 

4年間はあっという間に終わっちゃうから、残された農友会サッカー部としての時間を楽しんでください。

 


壮亮

3年間一回も一緒に試合出れずに終わった太田。バイトも一緒なことも後輩の中であって過ごす時間が一番長かったと思う。

色んな話もしたし、愚痴や、文句もたくさん聞いてくれてありがとう。

プレー、体つき共に確実に成長してる。

今難しい時期かもしれないけどここが一番大事だと思う。

失敗例はたくさん見せたと思う。だからこそこうならないように報われるまでやり続けろ。


応援してます。



陽樹、佳汰、晴斗


あと3年


長いようであっという間


だから頑張れ


あともう怪我人にはならないようにね



巧馬


もうゴールキーパーコーチだけにはなっちゃだめだよ。



サッカー面はもう言うことないくらいすごい。


期待しかしてない がんばれ!








次回の担当は、



自称 都会な秦野市出身



農大サッカー部のお母さんこと小柳 優です。



文武両道を貫き、来年からは大学院へ進学予定。




この4年間、いくつもの困難を乗り越えた彼女は、一体、何を語るのでしょうか。





乞うご期待!


〈思い出の写真〉

コメント
名前

内容


T.K
2025-12-06 22:27:55

ゆうだいお疲れ様