4年引退ブログ
「俺らの夢は続いてく、農大魂あるかぎり」
新 良介(FC東京U-18)
日頃より農友会サッカー部へのご支援、ご声援いただきありがとうございます。
この場を借りて心より御礼申し上げます。
「バイビジのお荷物」「ナマケモノ」と称される伊藤蒼太郎より紹介に預かりました
農大の「聖人」、「歩く人間性」こと新良介です。
蒼太郎、お前と出会えてよかったよ。本当にありがとう。
お前のブログ言い過ぎだろ。
あとで沢山書いているから、ここでは感謝までに。
16年間歩んできたサッカー人生を振り返りながら、すべて自分の本心で自分の言葉で
包み隠すことなくここに綴っていきます。
長い文章になってしまいましたが最後まで読んでいただけると幸いです。
ハンカチ、ティッシュのご準備をお願いいたします。
2024年11月9日。今でも鮮明に覚えている試合終了のホイッスルと同時に込み上げてきた涙。
関東2部リーグへの昇格が決まった瞬間である。
ただ自分がいた場所はグラウンドの上ではなく、応援席だった。
「試合に出てないのに、出られなくて死ぬほど悔しいはずなのに嬉し涙が止まらない」
僕のことをよく知っている人からすれば、「そんな涙流せるの?」と必ず思うであろう。
そして、今まで気づくことのなかった「本当に大切なこと」に最後に出会えたのであった。
僕が初めてサッカーと出会ったのは、幼少期で3歳頃。
父親がサッカーをやっていた影響もあり、小さい頃からボールを蹴る日常であった。
毎週のように父親と近隣の小学校の校庭開放に行ってはサッカーをしていた記憶がある。
あの日々が自分の中のルーツでもあるのかな?
小学校に入学し、小学校のチームに2年生から所属することになる。
幸いなことに他の同学年の選手よりもはるかに身長が高かったため、6年生の試合にも
出場することができた。
僕が所属していたチームは毎週のように試合をしては、信じられないかもしれないが、
「0―10」など大差で負けることなど当たり前で、勝てる気なんて一ミリも起きなった。
それでもサッカーが大好きで、練習がない日も夜になっても一人でボールを蹴りに近所の公園や小学校に行ったりしていた。
そんな努力が身を結んだのか5年生の頃に、後にお世話になるFC東京のアドバンスクラスに入れることが決まった。
当時のことを今でも鮮明に覚えていて、クラブから郵送でセレクション合否の通知が送られてくるのだが、学校から帰ってくるときに毎日ポストを確認していた。
そんなある日、FC東京から送られた大きな封筒がポストに届いていた。
当時、10歳前後であったと思うが、あの日の感情は今でも忘れない。
そんな興奮冷めやらぬ感情とは裏腹にここで人生初の「壁」に直面する。
ここまでサッカーをしてきて、当時所属していたチームでは試合には問題なく出場できて、
正直、同じチーム内に自分よりも秀でた選手はいなかった。
しかし、そこは首都圏から集まった精鋭たちばかり。自分の武器の左足すら通用していなかった。
「自分が一番下手だ」「ここで練習するのが怖い」「やっていて面白くない」
サッカーをやっていて初めて感じた気持ちだった。
そこから色んな理由を押し付けて、週一回の練習をズル休みまでしていた。
ここで見えた「新良介」という人間の一番の弱さ、それは苦手なことから逃げてしまうこと。
そんな中、6年生にもなり進路を決めるタイミングに差し掛かった。
アドバンススクールに入っていたこともあり、FC東京U-15深川、むさしのセレクションに参加する。色んな方の期待をいただき深川に入団することが決まった。
まさか自分がJリーグの下部組織でプレーするとは思っていなかった。
ここでプロサッカー選手になるための、自分の最大の弱さと向き合う3年間が始まった。
間違いなくこの中学3年間は自分のサッカー人生に大きな影響をもたらしてくれた。
1年生の頃は、関東中のエリートが集まる中で「逃げる」自分と向き合えず、
何度もクラブをやめようと考えた。
毎日の5種目リフティング、毎週火曜日の3000m走、弁当の蓋が飛びそうな量のご飯。
全てが自分にとって「苦」でしかなかった。
そんな中でも、1年生の館山合宿をきっかけに、サッカーに対して自分の弱さに対して前向きに、
少しずつ取り組めるようになっていった。自分の道が少し明るくなった気がした。
そして1年生最後の東京都大会ではキャプテンを務め、優勝を手にした。
中学1年生とは思えないほどの感情の起伏や成功・失敗体験を学ぶことができた。
そこから2年生ではAチームに帯同させてもらい、初の全国大会も経験した。
この年、一番記憶に残っているのは11月の高円宮杯関東予選vs川崎フロンターレ戦である。
当時、なんとかスタメンで出られていた僕は、深川名物の3000m走のタイムに入れず、
「3ヶ月間坊主」という罰を、のちに中学〜大学までお世話になる大先輩立川廉さんと決めて出場していた。
後半終了間際に、宮城天選手(現川崎フロンターレ)にぶち抜かれ失点。0−1。
散々迷惑をかけた挙句、自分のミスで先輩の最後の試合を終わらせてしまった。
試合後、当時の監督に「お前の肝っ玉はこんなもんしかない」とお叱りを受けた。
チームの基準をクリアもしていない当時2年生の自分が、三年生の最後の試合でやってはいけないミスをした。
この試合が、3年生になる自分の大きな転機につながっていった。
そして迎えた3年生。
ジュニアユースはユースへの昇格を競う場でもあり、3年生の夏頃にジャッジが下りる。
当時の僕は試合には出場していたが、昇格できるかできないか瀬戸際にいた。
最終的に、「このクラブでプロになってほしい」と言っていただき昇格を果たした。
ジュニアユースでの最大の目標を達成することができた。
この時の自分は充実感を十分に感じながら日々を過ごせていた。
3年前、嫌なことから目を背けて逃げていた自分からは想像できないくらいに成長できていた。この時、自分に自信さえも感じていた。
最後の高円宮杯。日本一まであと一歩のところで負けてしまい準優勝に終わった。
この時の悔しさは大学まで続いたサッカー人生の中でも3本の指にランクインする。
同時に、この悔しさを糧にして次のステップでは必ずいい思いをする、プロになる。
自分の中の強い意志と覚悟を定めた。
ここでは書き切れないほどの出来事が3年間で本当に多くあり、その中で少しずつ人としてもサッカー選手としても成長できた。
深川で出会えた素晴らしい仲間、サポーター、スタッフの方々に感謝しています。
高校生になり、ユースへ昇格した僕はジュニアユースでの自信をそのままに、
すぐに活躍してやろう。そう意気込んでいた。
しかし現実は程遠いものだった。同期の選手が活躍する中、Bチームの試合にすら
出られない1年間を過ごした。
なんとなく練習に行って、なんとなく寮に帰って、全てがなんとなくだった。
1年前の悔しさはどこにいったのか、上手くいかない自分を自分で正当化していた。
「俺の方がいい、なんで使わないんだ」
ベクトルは外に向いていた。そんな選手がうまくいくはずがない。
自分ではわかっていた。本気で努力すれば本気で筋トレすれば掴みとれる。
高校2年生では少しずつ試合に出られるようになってきた。
これが今になってわかる一番危険な状態であった。
死ぬ気で何かを積み上げてきたわけでもないのに、試合に出れてしまう。
当然、持ったのは数試合。
ある日の紅白戦で消極的なプレーが目立ち、メンバーから外されそこから一切スタメンになることはなかった。
当時の心境を振り返るが、
「このままいけばトップチームに昇格できる」そう思っていた。
根拠のない自信だった。
自分の苦手な筋トレ、その他の課題にはなんとなくしか取り組んでいなかった。
「あそこで本気になっていたら」
今でも後悔する瞬間の一つである。
3年生になり、新型コロナウイルスが大流行し練習も思うようにできずに、
毎日、地元の運動場で走ったりボールを蹴る日々が続いた。
実はこの時からトップチームの試合に出場できる2種登録をされていたので、
トップチームに上がって行くためには、最高な環境であった。
少しずつコロナも落ち着き、チーム練習ができるようになり、あっという間に迎えた夏。
ここでトップチームに昇格できるかを判断される。
結果はもちろん「見送り」。
中学1年生から続いたFC東京でプロになる目標は途絶えた。
結局、3年間で成し遂げられたことは少なく、厳しく振り返ると、
「なんとなくの3年間」といってもいいものだった。
自分にとって都合の良い時は少しだけ努力はするが、苦手なことには分かっていても
向き合おうとしなかった。
都合の悪い時は努力も何もせず、自分のいいように解釈する。
苦手なことから目を背けていた自分を克服できた。深川でこう思ったはずなのに、
前に感じた、同じような感覚だった。
「もったいない」「ポテンシャルはあるのに」「お前次第」
この言葉を中学時代から何度かけてもらっていたか、
しかし、僕がした選択はこの言葉たちに甘んじること。
「今の自分はそういう風に見えているんだ、自分には可能性があるんだ」
とんでもない勘違いをし続けた。
弱い自分がいるのもわかっていた、そこで歯を食いしばれない自分が悔しかった。
でも、努力するということは自分にとって嫌なことをしないといけない、
わかっているようで何もわかっていない人間になっていた。
そんな勘違いをしたまま、東京農業大学サッカー部に入部する。
当時、監督を務めていた三浦さん、コーチの児玉さんとはFC東京のスタッフとの縁もあり、この大学に進学した。
農大はその当時東京都1部リーグに所属していて、自分は正直レベル低いだろうと
調子に乗っていた。
自分が少しサッカーができるだけで偉いと勘違いし、 1年生のチームの仕事や同期とは関わらないようにしていた。
「一匹狼」狼ではなく「ネコ」ほどだろうか。
この言葉がよくお似合いだった、自分の好きなことしかやらず、周りの人のことは
考えずに毎日を生きる。
本当に最低な人間だったと思う。
環境が変わり、大学サッカーの強度に少しでも早く追いつけるようにと努力する同期を横目に、自分をずっと誤魔化していた。
そんな自分は4年生に意見を言われても聞き入れずに、反論ばかりしていた。
好きなことしかやらない、なんの努力もしない。
そんな生意気な自分を変えようと色んな4年生が声をかけてくれた。
今となっては当時の自分の姿は恥ずべきものであった。
唯人君、直人君、かわし君、篤史君、かつ君
あの時かけてくれた言葉の一つ一つが自分には痛いほど刺さるものばかりだった。
「勘違いするな」「後で後悔するぞ」「ブレずに向き合え」
弱い自分にとって、自らの弱さや課題を指摘されることが一番辛かった。
自分でも何をするべきか分かっている。でも向き合いたくない、辛い、苦しい。
こんなに弱い人間いる?ってくらい自分は弱い。じゃあなぜか?
弱さを出すこと、できないことをやっている姿を見られたくない。
自分を取り繕って少しでも大きく見せたい。
こんな考えでこれまでずっと過ごしてきたからである。
それでも変わらずにいた自分は社会人リーグに出場はできていたが、
トップチームに絡むことは少なかった。
1年目はなんとか社会人リーグで優勝し、昇格することができた。
みんなのブログにもある通り、4年生の力は偉大だった。偉大すぎた。
あり得ないくらい生意気だったと思います。申し訳ないです。
最後まで団結して誰一人ぶれない力強い背中を見せてもらいました。
あの時からは比べものにならないほど成長することができました。
本当に感謝しています。
そんな1年生を終えて、迎えた2年生。
当時センターバックが少なかったのもあり、多くの試合に出場することになる。
この年から監督が児玉さんに変わり、コーチとして新しく蛭子さんが農大に来た。
蛭子さんとの出会いが自分を大きく変化して行くきっかけになる。
当時はまだ東京都リーグに位置していたが、1試合を除く全試合に出場した。
2年生ながらに少しずつ芽生えた薄い責任感もあった。
チームがうまくいかない時、勝てない時、ものすごく悩んだ。
蛭子さん、児玉さんと何回も色んな話をした。
1年生から人間的に大きな変化もなかったので、練習中に練習を抜けたこともあった。
この時、周りの仲間がどう思っているのかなんてどうだってよかった。
児玉さんや蛭子さんのいっている事に納得がいかず、自分一人でイライラしていた。
その感情を表に思いっきり出してしまっていた。
そういった上手くいかない、不都合な状況に自分に矢印を向けられなかった。
蛭子さんから何回、筋トレの大切さを教えてもらっただろうか。
それでも、自分に都合の良いように誤魔化した。
まだまだ向き合うことの必要さに気づけていなかった。
そんな中でも4年生の活躍もありなんとか悲願の関東3部リーグ昇格を掴み取った。
この1年は、ほぼ全試合に出場することができ達成感のようなものもあった。
先に書いた通り、ここまでの2年間で人間的な成長は特になかった。
自分の好きなこと、やりたいことをやり、都合良く生きていた。
さて、ここまで読んで頂いた方。お気づきでしょうか。
ここまでの僕は全て自分の感情で行動して、周りからどう思われているかを気にせず、
「自分本意」で全て生きてきています。
僕の人生を、大学サッカーを大きく変える、本当の意味で変わっていく。
「変化」の3、4年生に突入していきます。
関東昇格を果たしてこのまま来季も。と意気込んでいたが、この3年生の一年が自分にとってとても大切な一年になっていく。
3年生になり、部内での位置付けは上級生になっていた。
今までのように自分の感情のままに行動をしてはいけない、自分でも分かっていた。
上級生としての自覚や責任感を持って行動していかなくてはいけない。
このような事を再確認するために、3・4年生だけの合宿に行った。
この合宿では、戦術の確認、縦と横の繋がり、フィジカル強化がテーマだった
個人としても、この合宿でチームを引っ張って行く姿勢を見せようと決めていた。
1日目、フィジカル強化のためのランメニューが始まった。
ここで問題を起こしてしまう。
異様に体が重く、全くタイムに入れなくなってしまう。
「なんで?」「こんなのにも入れないの?」「やる意味ないじゃん」
その当時、目の前の出来事に一喜一憂していた自分はランメニューの途中にも関わらず、
それを投げ出して、隣のグランドに逃げ出した。
他の人のことなんて考えていなかった。自分にただ失望していた。
今思えば、こんな些細な事でって思うけど、当時の自分には大ショックだったのだろう。
しばらくすると4年生の夏稀が駆け寄ってきてくれて、自分を元の場所に戻してくれた。
夏、あの時は本当に申し訳なかった。でも本当にありがとう。
その日の夜、学年ミーティングが開かれた。もちろん自分の事についてだ。
この夜は、自分にとって衝撃的で忘れられないものになる。
学年ミーティングで自分に対して思っていることを、本音でぶつける時間だった
竜成が涙しながら口を開いてくれた。
「お前のせいでなんで俺たちまでこんな思いをしなくちゃいけないんだ」
大輔も続いて言ってくれた。
「去年、試合にずっと出てたけど応援する気にならなかった、したくなかった」
葵も言葉にしてくれた。
「プロを目指すって言ってるけど、その感じで本当に目指しているのか」
他にもたくさんの同期が自分に対して思っていた事を初めてぶつけてくれた。
衝撃だった。同期がこんな事を思って2年間も過ごしていたなんて。
気づけるわけなんてなかった。全て「自分本意」だったから、周りなんて気にしていなかったから。
初めて仲間から言われた本音の言葉。自分には痛いほど刺さっていた。
仲間に、しかも同期に、あんな事を思われていたなんて。やばい、どうしよう。
「仲間のために」「干渉する」
結論から言うと、この言葉の意味にはまだこの段階を持ってしても気づけていなかった。
合宿での一件を受け、そこから自分の中でもう一度スイッチを入れて練習に励んだ。
それでも、自分の序列は上がることはなかった。
「まだまだ我慢、今は試されている。踏ん張ろう」
過去の自分では、外に矢印をむけ他責にしていた部分が少しは改善されていたのかもしれない。
実際に同期からの見られ方も少し良くなった気がしていた。
「少しずつ変われてきたかもしれない、ただ評価はされていない、なぜ?」
少しずつ我慢の糸が切れそうになっていた。
我慢しなくてはいけない自分とそれを受け入れられない自分の二つが入り混じっていた。
そして、大学サッカー生活、自らの人間性を大きく変える出来事(事件)が起きる。
ある日の上げ日のトレーニング中のことである。ダブルボックスの練習をしていた時だ。
蛭子さんが言った事に対して、暴言を吐いてしまった。
練習が止められ、自分は練習から出された。
我慢を続けていたのにこの瞬間その糸は切れてしまった。
「なんで俺だけこうなるんだよ、俺は悪くないじゃないか」
当時の心境はこんな感じだったと思う。
そんな自分に、修吾と青汰が駆け寄ってきてくれた。
「すぐに謝りに行け。その姿勢だけでも見せろ」
2人から掛けられた言葉に対して、それでも自分は反論していた。
本当に終わってたよね、修吾と青汰ごめん。
練習後、蛭子さんと話をして1週間練習を休むことを決めた。
こんなどうしようもない自分にも関わらず、丈士と雅堂が連絡をくれた。
あの時かけてくれた言葉は今でも忘れてない、本当にありがとう。
1週間後、反省をし自分の非を認め児玉さんと話をした。
そこで色々な事を言っていただき、
結論として、
「自分が変わったと児玉さん、蛭子さんが判断したら復帰する」
というものだった。
自分の中では、1週間くらいで復帰できるのかなとか甘い考えでいた。
誰よりも早く練習に行って1人で準備を終わらせて、
練習中はボールを拾って、マーカーを片付けて、ラインマンをして。
自分なりにやってしまった事を受け止めて、行動にした。
ただ時間は1週間、2週間、1ヶ月、2ヶ月と経っていく。
「全然先が見えない、自分の行動は間違っているのか。でもひたすら今のまま続けるしかない」
そう思っていた中、重要なヒントが自分に与えられた。
「1ヶ月半くらい経ったけど身体が変わってない」
それは身体の変化だった。
練習の準備や片付けは申し分ない程、できていたと思っているが、
本当のウィーク、「筋トレ」には取り組めていなかった。
「変わる」これはどういう意味なのか、必死に考え続けた。
それと同時に答えも見えてきた。
自分の最大の弱さは何か。それは向き合うべき課題から目を逸らすこと。
ここが変わらなければ復帰できないと確信した。
その一つが筋トレであった。
自分がサポートになってから、多くの時間を同期には割いてもらった。
何回もミーティングを重ねて、自分がどうすれば復帰できるかを考えてくれた。
時には、4年生も交えてミーティングをする事もあった。
本当に後ろめたく申し訳ない気持ちでしかなかった。
そしてここから筋トレを習慣化して色んな人に弱さを曝け出して、
トレーニングを教えてもらった。
後輩たち、同期、先輩、みんな本当にありがとう。
自分の問題と同時に学年としても見えてきた大きな課題。
「他人に干渉する」「当事者意識を持つ」
自分たちの学年は仲が良い。そんなイメージを持たれていた。
ただ、自分の事が精一杯な人、他人の事には興味がない人が多かった。
問題を起こした自分が言うのも違うかもしれないが、
自分の問題をどれだけの人が自分の事のように考えているのか。
サッカーはチームスポーツ、1人だけでは勝てない。
11人の繋がりがあってこそ勝利を掴み取れるスポーツである。
だからこそ、自分以外の10人に干渉をしてコミュニケーションを取らなくては行けないし、
仲間が色んな悩みを抱えていたり困っているのであれば自分のことのように手を差し伸ばしてあげるのが本当の仲間である。
このような解釈をしていた。
間違いなく言えるのが、この2つの課題が自分たちを最後まで繋いだキーワードにもなったことである。
そして、このサポートの期間で色んな事を考えた。前までは考えてこなかったことも。
自分の行動や発言を見た後輩たちはどう思うのか。
今まで、周りからの見られ方なんて気にしてこなかった。
なぜこんなに問題ばかりの自分に仲間は見捨てずに支えてくれるのか。
自分にはそれができるだろうか。
長いサポートが続いている中で、4年生のなかしからこんな言葉をかけられた。
「この一年があったからって言えるようにしたらいいやん」
ハッとした。本当にその通りだと思った。
これから迎える4年生、更には今後の人生にも必ず活きる時間を過ごさないといけない。
それはプレーしている時には分からない、見えない部分がたくさん見えている今だからこそ。
選手の細かい表情、隙がある奴、ギラギラしている奴、コツコツ積み上げて取り組んでいる奴。
普段、一緒に練習しているだけではわからない部分がたくさん見えてきた。
そこからは、毎日自分と向き合い、自分にできる限りのサポートを継続していった。
そしてようやく復帰の許可が出ることになる。
2024年7月25日。約4ヶ月ぶりに練習に参加した。
自分で蒔いた種ではあったが、長かった、苦しかった。
自分1人では踏ん張りきれなかった中で、同期や他学年の人たちが本当に支えてくれた。自分を変えようと必死に関わってくれた。
復帰してから自分の中でハッキリと決まった大学サッカーをやる意味。
今までは自分がプロになる為だけにサッカーを続けてきた。
しかし、ここで目標がガラッと切り替わった。その意味を見つけるのに3年もかかった。
それは「誰かのために」サッカーをやることだった。
ここまで支えてくれた仲間の為にというのがとにかく1番大きかった。
自分が不都合な状況になっても、そこで一歩を踏ん張る。チームに声をかける。
それが他の選手にとって数センチでも数ミリでも活力になればいいと思っていたし、
その姿を自分が先頭になって引っ張らないといけない、
チームを勝たせられる選手になっていこう。そう決めた。
復帰してから、Iリーグに出て、関東リーグのサブにまで辿り着き、
後期のアウェー専修大学戦。
0-0で迎えた後半残り20分程だろうか。自分の名前が呼ばれた。
約1年ぶりに公式戦に出場する。とてもワクワクしていたのを覚えている。
しかし、結果は残酷なものだった。
ロングボール一本を自分と葵の間に落とされ失点。0-1で試合終了。
チームを勝たせるどころか、自分が出場して失点して負けてしまった。
「神様は厳しいな」「そんな甘くないよな」
まだまだ足りなかった、もっともっとやらないといけない。
一喜一憂をしないことの重要性も長いサポート期間で学んだことでもある。
前を向いて直向きに取り組み続けよう。
この試合でCBの選手が怪我をした、そしてその週の練習では自分がスタメン組に入ることができた。
ラストチャンス。
必死に、とにかく泥臭く、チームのために1週間練習に励んだ。
そして迎えたホームでの共栄大学戦。1-0。勝利。
久しぶりに掴んだ勝ち点3。やっとの思いで出場できた関東リーグでの勝利。
とにかく嬉しかった。ただ、一喜一憂をしすぎないようにしていた。
そこから2試合を1勝1分で悪くない戦績を残し、迎えた城西大学戦の前日練習
朝練に寝坊してしまった。この時は、頭が真っ白になっていた。
「本当に何をしてるんだろう」自分の隙が招いた事だった。
ここまで来てもなお、同期に迷惑をかける事になってしまった。
この失敗で自分の2023シーズンは幕を閉じた。
チームは何とか残留をしたが、自分の最後まで情けない姿自分でも呆れていた。
せっかく復帰をして掴みかけたチャンスを自らの失敗で手離してしまった。
サッカー人生史上1番と言っていいほど「最悪な一年」になった。
しかし今振り返ってみると、「この1年間があったから」と素直に思える。
あの期間がなかったら、仲間に対して、周りの人に対して、自分に対して、
死ぬほどつまらない人間になってしまっていた。
そしてこの1年間で変わってきたとよく言われることがあるが、
自分が「変わった」というよりも「変えてもらった」という表現の方が正しい。
仲間とは何か、大学サッカーとは何か、そして農大である理由はなにか。
自分の中で明確になった一年になった。
激動のシーズンを終え、いよいよ最終学年が始まっていく。
新チームを立ち上げる際に、幹部を誰にするかという話し合いになり、
そこで副将候補に名前を挙げてもらっていた。
正直、心の中では「俺がやるのはまずいでしょ」と思っていた。
それは、こんな先輩に誰がついてくるんだよって思っていたからである。
そして、最終的には副将を務めることになった。
主将が建悟、副将が蒼太郎、竜成、主務が大輔、学連が駿太。
ここに自分の名前が並ぶのが少し怖かった。
全員これまでチームに大きな迷惑をかけずに、逆にチームに対して大きく貢献してきているメンバーばかりだったからである。
決まった以上は、自分にできることを全うするしかない。
今までの人生で経験してきた事は、みんなが経験できることではないし、
良い思いも悪い思いも経験してきた自分だからこそ伝えられる事があると思っていた。
そして、自分には最大の強みがある事にも気づいていた。
それは”良くも悪くも”「人を巻き込む力がある」ということ。
しかしチーム内では賛否両論。というか賛同の声は少なかった記憶がある。
当たり前だろう、昨年の自分の姿を見て納得する人なんていない。
まずは、みんなに納得してもらえるように自分の行動をもう一度見つめ直し.
その上でチームに何ができるかを考えようと決めた。
そして迎えた最後の一年。
2月1日から新チームが始動した。副将として、最高学年として、覚悟を決めて取り組んでいく。
そして必ずチームを昇格させる。強い意志があった。
こんな気持ちとは裏腹にアクシデントが起こる。
2月の中旬〜下旬にかけてのフィジカル期間の最終日の紅白戦で膝を痛める。
歩けないくらい痛かった、こんなに痛いのは久しぶりだった。
診断名は内側側副靱帯断裂。
自分が思っているよりも重傷だった。
全治は4〜5ヶ月。
最後の一年、ここからだというのに長期の離脱をしてしまうことになった。
しかしこの時の頭の切り替えは早かった。
自分がやらないといけない事は、怪我を引きずって落ち込むことではなく、
サッカーをやらない分、他の選手よりも多くのことが見える。それを伝える。
チームのためにできる事に汗をかくことだ。
正直、自宅療養も考えた。そうすれば復帰が早くなるかなとか。
でも他の幹部よりもスタートラインが後ろの自分にそんな時間はなかった。
練習や試合に出向いて、声をかけたり、チームが勝つために、昇格するためにできることをやろうと思っていた。
新チームを立ち上げてから初の沖縄合宿に全員で行った。
行きの空港で、三脚を没収され那覇空港で児玉さんに集合をかけられてから、
少し自分たちの中でもピリッとした雰囲気が流れ始めた。
それまでは、何となく幹部という立場ではあったものの、絶対的な形はなかった。
それは覚悟なのか、取り組み方なのか、自分たちでも話し合っていた。
とにかく全員で協力して、それぞれに出来ることをやる。
幹部以外の4年生にも協力してもらおうという話になった覚えがある。
そして、あっという間に関東リーグが開幕した。
この辺りから、徐々に周りの人間から信頼され始めてきてるのかなと思っていた。
今まで以上に気づきを増やし、自分を律した上で強気に発信し続けた。
リーグ開幕から、これまでの農大とは思えないくらいの勢いで勝ち続け、
上位に位置する事が当たり前になっていた。
その中で日々蛭子さんからもよく言われていた、
「こういう時こそ細かいところに目配り気配りすること、ピッチ外も同じ」
ケガで離脱している自分の役割はこれだなと確信した。
特に後輩に対しては、1番気を遣って接していた。
メンタルがブレそうになってる奴、逆に調子がいい奴、セカンドに落とされた奴。
色んな境遇の後輩たちに、自分なりに経験してきた立場から声をかけた。
自分みたいになってほしくない、この思いだけだった。
自分にとってあの期間は必要だったかもしれないが、サッカーが出来ていない以上、
勿体無いと言わざるを得ない。
だから皆んなには、自分の失敗から学んでほしかった。
自分には影響力がある。
この意味を勘違いせず、取り組んできた結果が少しずつチームの中でも見えてきた。
100人という大きな組織の中で、100通りの考えがある中で、
全員の矢印を関東リーグ2部昇格に揃えることを必死に毎日取り組んでいた。
必要と感じれば、時には厳しい言葉もかけた。
自分が1年生の時に4年生からかけてもらった厳しい言葉は今でも忘れていないからだ。
少しずつチームとしてのまとまりも出てきて、気づけばリーグ戦も残り2試合。
これに勝てば昇格が決まる。
ここまで本当に長かった。
正直、1試合も出れていない状況はすごく悔しかった。
それでも何とかチームが昇格するために、笑って終われるように、
チームが昇格するのであれば、自分の境遇や感情はどうでもよかった。
試合に出ていなくても、勝つ可能性を少しでもあげることはできる。
トップの選手だけではなく、セカンドの選手まで、チーム全員を巻き込んで、
「全員で昇格する」
自分の役割はこれだと確信した。
そして迎えた、2024年11月9日。
今でも鮮明に覚えている試合終了のホイッスルと同時に込み上げてきた涙。
関東2部リーグへの昇格が決まった瞬間である。
ただ自分がいた場所はグラウンドの上ではなく、応援席だった。
「試合に出てないのに、出られなくて死ぬほど悔しいはずなのに嬉し涙が止まらない」
なぜこんな涙を自分が流せるまでに成長できたのか。
本当に大切なものとは何なのか。
農大に入って大学サッカーをやる意味は何なのか。
1年生の自分からは想像できないほど、性格が変わったと言われるほど、
ここで、農大で成長できたという強い自負がある。
それは自分1人では絶対に気づけなかった。
周りにいる仲間が、後輩が、先輩が、スタッフがいなければ。
「誰かのために」
この言葉には大きな力がある。
最終的に選択するのは自分自身。目的はそれぞれなんだっていい。
その目的からしっかりと逆算をして今何をすべきかを考えてそれを実行してほしい。
農大のサッカー部に属している以上はこの言葉を忘れないでほしい。
それが農大で大学サッカーをやる意味であり、
それこそが「農大魂」を持った選手であるのではないか。自分はそう結論付けた。
本当に最後に出会えたものは、
「農大魂」この言葉である。
人によって解釈は違う言葉だが、それでいい。
一人一人の「農大魂」が集まって、強いチームを形成していく。
後輩たちには1番大切にしてほしい部分。
チーム愛、同期愛、そして農大への愛。
自分のことのように物事を捉え、仲間に干渉し、お互いにけつを叩き合う。
こんな俺でも出会えたこの言葉の意味を是非、早く見つけてもらいたい。
そうすれば必ず何かを掴み取れる、意味のある4年間を過ごせる。
これは必ずといっていいくらい約束できる。
自分がどんな立場になろうが、どんな不都合な状況が目の前にあろうが、
一喜一憂せずに「農大魂」を持って突き進んでほしい。
こんな俺でも最後までやれたから。絶対に大丈夫。
周りの人への感謝を忘れずにこれからも頑張ってください。
「俺らの夢は続いてく、農大魂ある限り」
この言葉のように、俺たちが引退しても農大の歴史は止まることはありません。
そして引退した後も、農大魂は心から消えることはありません。
どこまでもどこまでも俺らの夢は続いていきます。
サッカーを通じてたくさんの価値観に触れ、たくさんの人に出会い、様々な経験をしてきました。
サッカーを通して出会った方々、応援してくださった全ての方々、
最大限の感謝を込めて、私のブログを締めさせていただきます。
以上で、私のサッカー人生に幕を閉じます。
最後に言葉だけは伝え切れませんが感謝を伝えさせてください。
児玉さん
高校生の頃から、自分を見てくれて、我慢して使ってくれた事もあると思います。
4年間を通して、色んな話をしてきました。
全ての言葉が今の自分を形成しています。
本来であれば、最後の最後までリーグ戦で戦っている姿を見せたかったです。
ただ、そこで上手くいかないのも自分の人生みたいです。
本当に色んな場面で、お世話になりました。
ありがとうございました。
蛭子さん
今自分が笑顔で悔いなく大学サッカーを終えられたのは蛭子さんのおかげです。
筋トレ、私生活、サッカー。色んなところで沢山の会話をしました。
調子が良い時、悪い時、どんな時でも声をかけてくれました。
ここでは感謝してもしきれません。
蛭子さんと最後の引退試合を戦えた事、一生の思い出になりました。
最後の涙、最後の握手。絶対に忘れません。
本当に今までありがとうございました。
FC東京に関わる全ての方々へ
小学生3年生からスクールに通い、そこから小5、6とアドバンスでお世話になり、
深川、U-18と約9年間もの間、お世話になりました。
自分が本当にこのクラブでプロになりたいと思えるクラブがFC東京で良かったです。
貴重な経験をたくさんさせていただきました。
中学生、高校生からは考えられないくらい成長することができました。
「強く、愛される選手」の本当の意味が今ではわかる気がします。
1人の選手として、人間として、男としての土台を作ってもらいました。
サポーターの方々、スタッフの方々、本当にありがとうございました
隆利、耕輔、夏稀、なかし、来音、明也、武井さん
特にこの人たちには本当にお世話に、いや迷惑をたくさんかけました。
どうしようもない後輩がいて世話を焼かせました。ごめんなさい笑。
寄り添ってくれたり、時には厳しい言葉もたくさんかけてくれました。
いつもは生意気言ってたけど、本当に尊敬してたよ。
みんな本当にありがとうございました。
廉さん、りっくん
これを書いてるだけで泣きそうです。
2人には小さい頃からお世話になりました。
廉さんは中学、高校、大学まで。りっくんは保育園、小学校、大学。
2人がいなければ、ここまでくることは出来ませんでした。
りっくんは、中学でも大学でも行き帰りも一緒にいたよね。オフの日も。
わがままで生意気な自分を最後まで正しい道に導いてくれてありがとう。
数えきれないほど、2人にはたくさん救われました。
2人みたいな男になりたいって思いました。
これからも末長くよろしくお願いします。
本当に本当に本当にありがとうございました。
高橋葵、悠天、隼人、奏音、龍、快、歩、陽翔、けんた
俺がサポートの時、新人戦に一緒に帯同して仲良くなったな。
サッカーに対して真っ直ぐで、妥協を許さない学年。素晴らしかった。
いっつもいっつも「新さん、新さん!」ってルームでも学校でも、グランドでも、
言ってくるお前たちが本当に好きだったよ。
来年からはお前たちが自覚を持ってチームを引っ張るんだぞ。頼んだぞ。
最高の2年間だったな、本当にありがとう。
しましましましま!!
斎藤敬太、平澤諒河、賀久、やぎ、凰起、翼、大樹
最後だから仕方ないから書きます。
可能性しかない。これからの農大をお前たちで作り上げてください。
凰起、最後の1分25秒の時一緒にゴールしてくれてありがとな。そんな事できるんだな。
本当にみんな超頑張れ。応援してます。
3年生
色んな思い出あるな。
いっぱいバカやったな。
あとはお前たちの農大だ。頼むぞ。
試合見に行きます。頑張れ。超頑張れ!
家族へ
小学校2年生から始まった、いやその前からサッカーにのめり込んで、
最初は楽しいだけのサッカーだったけど、段々と辛いこと、苦しいことが増えてきて
家族にも迷惑をかけた事もあったと思います。
最後まで自分の意思を尊重してもらい、自分の選んだ道を応援してくれたからこそ、
弱い自分に向き合う事から逃げていた自分が、
今では、沢山の人に影響を与えられる人間にまで成長することができました。
プロになる。この夢は叶えられなかったけどそれ以上に大切なものに出会えました。
本当に今までありがとう。これからもよろしくお願いします。
同期へ
凱
お前とは色んな試合に出たよな。
試合中によく喧嘩して、何だよこいつって思う時の方が多かった笑。
でも、やっぱりお前はチームに必要な選手だった。
凱がいてこその関東昇格。お前なりに色々考えてチームを引っ張ってくれた姿、
しっかりと目に焼き付けたよ。
4年間ありがとう。
駿輔
俺が調子悪い時、サポートの時、色んな言葉をかけてくれたよな。
サッカーに関して無関心ながらも絶対に負けたくないっていう強い想いが、
駿輔のプレーから感じられました。
最後まで俺に干渉し続けてくれてありがとう。救われたよ。
4年間ありがとう。
修吾
修吾さん。本当にあなたはすごいよ。
人に対して何の興味もなく、無関心そうな修吾だったけど、
俺が蛭子さんに練習出された時、最初に来てくれたのは修吾だったよな。
最後の一年、修吾といる時間が多い中で俺の中の原動力になってたよ。
彼女の話、サッカーの話、全部楽しかった。
4年間本当にありがとう。
雅堂
合宿の雅堂。ですよ。チマエフ。
3年生から急に頭角を表し始めて、みんなの爆笑を掻っ攫ってたね。
雅堂は、俺が練習を休んでた時期にLINEをくれたのがすごく力になった。
本当に本当にありがとう。
最後の雅堂の姿、すごい頼もしかった。
4年間ありがとう。
雅史
努力の天才。
1番評価されるべきは雅史だったな。
最初の頃は、自信がないようにプレーしてた雅史が最後はトップサブで
後輩たちに声をかけながらプレーしてる姿、本当に頼もしかった。
1年生からの積み重ねが最後に実って関東リーグに出た時は本当に嬉しかった。
また風呂で熱く語ろうな。
4年間ありがとう。
青汰
お前との色んな思い出を振り返るだけで泣きそうになる。
楽しい思い出、辛い思い出。たくさんあったよな。
サポート期間の時は、1番青汰に相談した。
どんな時でも、ズバッと物事を言えて誰かのためになれる。
そんなお前がめちゃくちゃカッコよかった。
本当にお前にも救われたよ。感謝してます。
4年間ありがとう。
良潤
学科も同じで、1番の思い出は沖縄だな。沖縄旅行。
4日間死ぬほど楽しかったよな。
俺が上手くいってない時にも声をかけてくれたりしたの助かってたよ。
4年間ありがとう。
Joji
最年長のJoji。最年長ながらチーム一の変わり者。
学科も同じで、丈士も俺がサポートになった時LINEくれたよな。
飲みに行ったり、ピッチ外でも色んな思い出あるよ。
お前のどんな時でもブレない背中は本当に大きかった。
ただ、緑のチームを応援するのはもうやめな?
本当に楽しかった、4年間ありがとう。
進悟
本当に色んな思い出あるなぁ。
毎週のように飲みに行ってた大学2年生だったり沖縄行ったり、
筋トレで悩んでる時に一緒に筋トレしたり、
お前のそのスーパーな身体能力で何度も救われたよ。
俺が復帰した3年のIリーグで、「おかえり」って声をかけてくれたこと
今でも鮮明に覚えてるよ。本当に楽しかったな。
4年間ありがとう。
怜於
怪我に悩まされて、色んな壁があったと思うけどそこに対して真っ直ぐに、
直向きに努力し続ける姿は本当にすごかった、
なかなか一緒にプレーする時間は少なかったけど、最後の試合出れて良かったな。
静岡帰っても俺たちのこと忘れるなよ。
4年間ありがとう。
ひかり
4年間お疲れ様でした。
マネージャーの大変さを選手が書くのは違うと思うので、俺は感謝を伝えます。
ひかりがいなければ、マネージャーがいなければこのチームは成り立ちません。
それくらいお前の力が必要だったし、とても大きかった。
ずっとずっと支えてくれて本当にありがとう。これからの人生もひかりらしくな!
4年間お疲れ様、ありがとう。
大輔
大輔、まじでありがとうな。
何回もお前に繋ぎ止められたよ。
人のために、チームのために労を惜しまないその姿は才能だな。
本当にリスペクトしてます。
苦しい時も楽しい時も色んな思い出が蘇ってくる、大輔がいてよかった。
本当に4年間ありがとう。
駿太
こちらもまた最年長榮村さん。
学連の仕事を最後まで徹底してやり抜いてくれたね、
表で活躍する人がいれば必ず裏で活躍してる人がいるってよく言うけど
駿太が支えてくれたから色んなことが学年にとってプラスに働いたと思います。
オールで朝練きて、ヘディングロングボール大好きでした。
経済でも色んな思い出あるなぁ。楽しかった。
4年間ありがとう。
竜成
お前もなかなかの問題児だよ。
大輔と建悟と4人で話した時、あーもうこいつだめだって思ってたけど、
そっから戻ってきてくれて関東リーグでも素晴らしい姿を俺たちに見せてくれて、
お前のパワーでチームが学年が何回も助けられたと思います。
一緒にここまでやってこれてよかったよ。
4年間ありがとう。
蒼太郎
お前のブログに書いてた通り。
あの夏合宿のバルコニーのエモーショナルトーキングで、俺もハッとした。
まさかお前からそんな事言われると思ってなかったから、
でも、ずっとこの学年を引っ張ってきてくれて色んな想いがあったと思うし、
余計なことも考えさせちゃった時もあったと思うけど、本当に頼りになった。
最後の一年、お互い怪我で悩んでる時に2人で励まし合ってたよな、
一緒にピッチに立つことはできなかったけど、お前がいたから関東2部に上がれたと思う。
苦しい思い、辛い思いの方が多かったかもしれないけど、
お前と一緒に副将やってきて本当に良かった。ものすごく頼もしかった。
お前も聖人になれるように頑張れよ。
4年間本当にありがとう。聖人より。
建悟
何から話せば良いんだろうな。
ずーーーっと一緒に学校でもグランドでもいた気がするな。
2年の時は、4年の扱いが難しくて2人で悩んだり、勝てなくて悩んだり、
3年の時は、3年の話はもうしたくないからいいか。
4年でキャプテンに選ばれて。俺はお前しかいないってずっと思ってた。
コイントス係でも、無能キャプテンでもない、お前こそが俺たちの主将だった。
誰よりも多く一緒にいたからこそ色んな感情をお互いに共有したな、
お前もまた努力の天才。そして結果も出し続けてた。本当にすごかった。
最後、昇格できて良かった。
そして、引退試合お前のアシストからゴール決めて死ぬほど嬉しかったよ。
4年間本当にありがとう。これからも頑張ってください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
そして、私に関わる全ての皆さん本当にありがとうございました。
さぁ引退ブログも次が最終回になります。
アスルクラロ沼津内定。農大の10番でありながらキャプテンをも務めた。
そう藤井建悟。
ミスチルを愛し、ミスチルに愛された男でもある彼が、4年間感じたこととは。
そしてラストを締めくくる感動のフィナーレとなるのか、ならないのか。
ぜひお楽しみに!!
〈思い出のショット〉