4年引退ブログ vol.10
『できる限り』
菅又 賢人 (宇都宮短期大学附属高等学校)

まず初めに、東京農業大学農友会サッカー部を日頃から支えてくださっている皆様、本当にありがとうございます。皆様のおかげで、私はこの4年間、真剣にサッカーと向き合い続けることができました。心から感謝しています。
仕事があれば期限内に完璧にこなす。仕事のミスはなく、何度も助けられた若林から紹介を預かりました。
マティーこと、菅又賢人です。農大サッカー部であった、兄の菅又勇人から受け継いだこのあだ名も、気づけば本名よりも馴染んでいます。笑
17年間続けてきたサッカー人生を、ありのままの言葉で振り返りたいと思います。
最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
〜できる限り〜
自分がサッカーを始めた理由は覚えていない。
気づいたときにはすでにボールを蹴っていた。
父と兄2人がサッカーをしていて、家には常にボールが転がっていた環境だった。
幼稚園の年中からサッカーを始め、小さい頃は本気でプロになりたいと思っていた。
(今思うと笑ってしまう)
小学3年で受けたセレクションに合格し、栃木SCジュニアへ。未来は明るいと本気で思っていた。
しかし、理想としていた現実とは全く違った…
6年生のとき、「体格と走力が足りない」という理由でジュニアユースに上がれないと告げられ、人生で初めて大きな挫折を味わった。
めちゃくちゃ悔しかった…
ただ同時に、自分に足りないものを明確に突きつけてもらえた3年間でもあり、今となっては感謝の気持ちしかない。
中学では、2つのチームを渡り歩き、思うようにいかない日々が続いた。
この時期はサッカーというよりも、人としての在り方の方が大事だということをここで痛いほど学んだ。
仲間との関わり方。
謙虚さ。
素直さ。
全部この時期に身をもって知った。
この時期があったから今の自分があると思う。
(山田、あの話は本当にここには書けない。笑)
高校では、県ベスト4常連の強豪校を選び、「スタメンで全国に行く」という目標を決めて入学した。
しかし、結果はすべてベスト4止まり。どうしても全国大会に届かず悔しさが残った。
高校最後の大会が終わったとき、自分はサッカーを本気で辞めるつもりだった。
そんなとき、父に言われた。
「本当に大学でサッカーをやらないのか?」
そんな一言だった。
兄が帰省して、バカみたいに走って。筋トレして。サッカーと向き合ってる姿を間近で見て大学サッカーの厳しさは、痛いほど想像できていた。
正直、それを見ていた当時の私には4年間やり切れる自信とメンタルなんて一つもなかった。
それでも父は言ってくれてた。
「幼稚園からずっとサッカーを続けてきて、大学でもサッカーができる環境があるのにやらないのか。きっと人としても1人のサッカー選手としても今より成長できると思う。」
その言葉が刺さった…
自分のサッカー人生を振り返ると、「やり切った」と胸を張れる瞬間はなかった。
このまま終わったら絶対に後悔する。
もう一度、自分とサッカーに向き合ってチャレンジしたい。
そう思い、大学サッカー4年間を本気でやり切ると決意した。
前置きが長くなったが、ここから大学4年間を振り返る。
大学サッカーを引退して改めて思うのは、「楽しかったけど苦しかった」ということが私の本音だ。
特にラスト1年は、嘘でも上手くいったとは言えない。
難しいシーズンだった。
大学3年生までは、昇格や残留しか経験してこなかった中で、初めて自分たちの代で降格し、4年生として後輩たちに関東2部という舞台を残せなかった。
本当に申し訳ない。
そして去年、関東2部リーグ昇格に導いてくれた先輩達にも本当に申し訳ないと感じている。
それでも、この4年間には後悔はない。
なぜなら、自分とチームに本気で向き合い続けてきた自負があるから。
もちろん結果は大事だが、充実したと言える過程を踏んできた。
そう言うと自分を正当化しているのかもしれないが、大学サッカーを振り返れば、その言葉に嘘はないと思える。
1年生は社会人リーグ登録から始まった。
入学してすぐの1節・2節に途中出場し、2節目のホームで堀井のパスからゴールを決めてチャンスを掴んだ。
(あの試合が堀井と一緒に公式戦に出られた最初で最後だと思うと悲しいな)
その後、前期はスタメンで試合に出て、後期からはIリーグに主戦場を変えた。
関東1部のIリーグは想像以上に強度もスピードもフィジカルも高く、このままでは何も通用しないと痛感した。
そこから当時のトレーナー徳さんに筋トレを基礎から教えてもらい、必死に下半身を鍛え続けた。
(徳さん本当にありがとうございました)
少しずつ体も変わり、プレーも良くなってきた感覚があったが、チームはIリーグ1部から2部へ降格し悔しさが残った。
ただあのレベルでプレーできたことは間違いなく自分にとって高いレベルを知るいい機会であった。
2年目はIリーグ関東2部からのスタート。
最初の試合は負けや引き分けが続いたものの、その後ほとんどの試合に勝利し、プレーオフまで進むことができた。
しかしプレーオフで負け、昇格は叶わなかった…
自分自身は、前期は多くの試合でスタメンで出場したが、結果を残せず後期は途中出場が増えた。
「自分が交代 → 浦岡、井口、しんたろう君が試合に出る → 点が入る → チームが勝つ」という流れが続き、自分の価値とは何なのか、何のために試合に出ているのか、毎試合悔しさを抱えながら家に帰る悔しい日が続いた。
チームが勝つのは嬉しいはずなのに、選手としての悔しさがどうしても拭えなかった。
先輩が活躍し、後輩が結果を残していく中で、焦りと危機感が消えなかった。
今振り返ると、あの時の自分は本当に考え方が浅かったと思う。
あの状況だからこそできることがたくさんあったのに、当時の自分には見えていなかった。
3年目、上級生となり、選手としてだけではなく主務としても責任を持つようになり、この1年が勝負だと思っていた。
しかしそんな思いとは裏腹に、自分のサッカー人生が大きく揺らぐ出来事が起きた。
2024年4月21日の練習試合で、前十字靭帯と半月板を怪我してしまった。
切れた瞬間、「ブチ」と紐が切れるような音がした。その音は一生忘れることはないと思う。
膝は腫れ上がって曲がらない。
寝返りも痛くてできない。
歩けない。
右足に力が全く入らない。
そんな地獄の日々が続いた。
医者から「手術をして復帰まで1年」と告げられた。
復帰への見通しが立たない不安。
みんなに置いていかれる焦り。
選手としてここにいて良いのかという葛藤。
様々な感情があった。
それでも、前を向いてリハビリに向き合えたのは、家族やチームメイト、そしてスタッフや高津トレーナーの存在があったからだ。
診断を受けた時、一緒に診断を聞いてくれたマネージャーのあいさくが自分以上に悔しがり泣いていた。
そして、診断をみんなに伝えると先輩・同期・後輩から熱い言葉が届いた。
その全てが、自分を支えてくれた。
「もう一度ピッチに立ってチームの力になりたい」その想いが強くなり、立ち止まっている暇はなかった。
選手としてだけでなく、主務としてチームを動かす立場でもあったから。
ボールを蹴れない悔しさを噛みしめながら、リハビリと地道に向き合い、裏方としてチームを支えた。
自分がミスすればチーム全体に迷惑がかかる。
怪我をしているからと言う理由で責任からは逃げたくなかった。
毎日苦しくても踏みとどまった。
「走りたいのに走れない」
「サッカーをしたいのにできない」
「チームのために動きたい」
「何のためにここにいるんだ?」
そんな思いが何度もぶつかった…
それでも高津トレーナー・かもめクリニックのセラピストの方々の支えがあり、どうにかこうにか、復帰に辿り着くことができた。
(感謝しかありません)
そして迎えた4年目のラストシーズン。
これはただの1年ではなかった。
最も苦しいシーズンになった。
チームは関東2部から3部へ降格。厳しい現実を突きつけられた。
個人としては、復帰しても身体は思うように動かず、膝の再発への恐怖が常につきまとった。
球際に入る瞬間、
空中戦で踏み込む瞬間、
切り返しで足をつく瞬間、
その度に、怖さが勝って足を引いて球際から逃げる自分が嫌で仕方なかった。
最後のサッカー人生をこのまま怖さに負けて終わりたくなかった。
だから、常に自分に問い続けた。
「このチームに、自分は何を残せるのか」
「後輩たちに、自分の姿で何を示せるのか」
考えて、悩んで、最後に辿りついた答えは、
「怖さに打ち勝ちチームのために戦う」
という答えと覚悟だった。
プレーがダメでも、姿勢で示せるものはある。
ピッチ外でも自分だからこそ何か示せるものがある。
そう信じて、最後の3ヶ月をピッチ内外で戦った。
社会人リーグでも出場時間は長くはなかった。
それでも、自分のできる一つ一つのプレーに魂を込めた。
声を出し、身体を投げ出し、4年間積み重ねた全てを最後に置いていくつもりで必死に戦った。
そして迎えた最終戦。
色々な兼ね合いで、自分は怪我明け初スタメンとしてピッチに立っていた。
試合が始まれば、あとは戦うだけ。
全く上手い選手ではない。
でも、その瞬間にできる全てを出し切った。
途中交代になったが、同期や後輩と最後まで走り切れたことが本当に良かった。
もう一度このピッチに戻ってこられて、本当に嬉しかった。
試合はセットプレーで加賀谷がヘディングを決め勝利。
笛が鳴った瞬間…
怪我を乗り越えたこと。
自分と向き合い続けたこと。
仲間と戦い続けてこれたこと。
その全てが誇りに思えた。
最後の愛してる農大は本当に最高だった。
戸部、新井、大竹、山田の男泣きには、こっちまで泣かされた。
(みんながチームの最上級生として責任と覚悟を持って後輩とチームを引っ張り戦い続けてくれていたことをあの涙を見て改めて実感した。本当にありがとう)
悔いはない。
あの日ピッチに立った自分は、ただ怪我から復帰しただけの選手ではなく、4年間を通して人間として強くなれた自分だった思う。
この4年間、うまくいかないことの方が多かったし、逃げ出したくなる日もあった。
それでも最後に胸を張れるのは、苦しさから逃げず自分のできる限り、何事にも立ち向かい続けた自分がいたからだと思う。
本当に4年間ありがとうございました。
以上で、17年間のサッカー人生に幕を閉じます。
長々とまとまりもなく、面白みもない文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。
最後に
農大スタッフの皆様
4年間、本当にお世話になりました。今年はスタッフ・選手にとっても厳しいシーズンとなってしまいましたが、大学4年間を通して私は、それ以上に大切なことに気づくことができました。児玉監督が常に仰っていた「他人に干渉すること」「目配り・気配りを忘れないこと」を意識して生活する中で、選手としてだけでなく、一人の人間としても確かな成長を実感しています。
スタッフと共に、日々の練習に真剣に向き合い、最後まで戦い抜くことができたことは、私にとって大きな誇りです。4年間、本当にありがとうございました。
児玉監督
8年間にわたり、菅又勇人・菅又賢人を指導していただき、誠にありがとうございました。私自身に関しては、練習参加もできていないにもかかわらず、サッカー部に受け入れていただき、本当に感謝しております。さらに、主務という大切な役職を任せてくださりありがとうございました。至らない点ばかりでしたが、様々な視点からチームを支え、サッカーができる環境が決して当たり前ではないことを、4年間を通して強く実感いたしました。この経験を糧に、これからの人生にしっかりと活かしてまいります。
本当にありがとうございました。
同期へ。
お前らはいつも言ってくるけど、俺は主務推薦でサッカー部に入部したわけじゃないからな笑
その中でも、何かやるとなった時に一気にまとまるあの団結力は、本当に心強かった。みんなサッカーにも真剣に向き合ってきたし、ピッチ内では戦っていた姿はいつも刺激を受けていた。ひねくれて逆張ってたやつは1人くらいしかいなかったけど(笑)、そんな仲間たちと同期として4年間戦えたことを、心から誇りに思っています。
みんなと過ごした時間は、自分にとって大きな支えであり財産です。ありがとう。
可愛い後輩たちへ。
うまくいかない時期は誰にでも来る。今の序列に納得がいかず、ベクトルを外に向けたくなる気持ち、痛いほど分かる。でも、それをしても自分には何も残らない。どれだけ苦しくても「自分は何のために大学サッカーをやっているのか」「チームのために自分には何ができるのか」それを自分に問い続けてほしい。
逃げないでほしい。
そうすれば、少しずつ答えが見えてくる。4年間やり切ることが何よりも大事だと、自分は心から言い切れる。どうか自分のサッカーを最後まで諦めずに追い続けてほしい。蛭子さんもいつも言っているように、「苦しい時こそ人間性が出る」「調子が良い時こそ謙虚にいる」この言葉は絶対に忘れずに、サッカーと向き合って下さい。
何かあったら連絡してきてくれると嬉しいです。
待ってます!!
次回は、俺を見れば肩パン・ビンタが飛んでくる。
そして、お前は効率が本当に悪いと言ってくる。

私は彼に一体何かしたのでしょうか?笑
しかし、ピッチ内では打って変わって、攻守にわたりチームのために走りハードワークを怠らない「溝口慶人」選手です!!

私と同じ膝の怪我を乗り越えて復帰を果たし、最後はトップチームのサイドバックとして農大サッカー部を支えた男。彼のもがき、苦しんだ姿を、私は間近で見てきました。彼の引退ブログは間違いなく熱く内容の濃い引退ブログになると思います。
乞うご期待!!
〈思い出の写真〉





