4年引退ブログvol.4
『山あり谷あり』
戸部 悠太(浦和南高校)

はじめに、日頃より東京農業大学農友会サッカー部を応援、ご支援いただいている皆様、心より感謝申し上げます。
この場を借りて感謝申し上げます。
マイペースであり、三度の飯より推し活、名前を見たら最初は読み方間違えてしまう
鈴木悠(はるか)から紹介をいただきました。
8割何を言ってるか分からないでお馴染みの戸部です。
ボトルの答え合わせずっと待ってたわ。
1番チーム想い。うん、悪くないね。
あっという間のようで長かった4年間も終わり、まだ遠い先のことのように思っていた引退ブログを書くときがやってきました。
「山あり谷あり」サッカー人生を振り返るとこの一言に尽きるなと。
引退して文字に綴る事なんて滅多にないので、この場を借りて振り返っていこうと思います。
長く拙い文章ですが読んでいただけると幸いです。
それではスタート!
〜山あり谷あり〜
小学生は地元の少年団、そのチームは父親がコーチをしていた。
時には練習前にバイクのケツに乗せられて雑草のグランドで朝練をしたり
時には朝から5キロくらい走ったり
時には学校に行く前に朝練をしたり
そんな日々を過ごしていた
中学
中学生では2個上が関東大会に出たり、1個上があと一勝で全国に出れたようなチームでやっていた。(中体連)
そのようなチームで上級生のメンバーに入ることはなく自分の代へ。
まーガキな中学生だった
なんか不満があったら顧問に言いに行くわ、味方とは大会前に揉めるわ
そんなことしといて県大会2回戦負け
そんな人間のいるチームが勝てるはずない
本当にしょーもないし、自分のわがままに付き合わしてしまったチームメイトには申し訳ない
しかし、中学生の時に牧野先生に出会ってなかったら今の自分はないと言っても過言ではない
中学生の時は塾にも行ってたし、勉強がそこそこできて、サッカーもそこそこ強い学校に行こうと考えてた(学歴厨)
ところが先生から浦和南に行けよ
監督がお前を欲しがってると。
浦和西(栗原大輔)の方が勉強ができたからそこを目指していた
行けよー、行きません。の一点張りを3回ほど繰り返したことを覚えてる。
この時に初めて芽生えた感情。人から必要とされること
こんなに自分を求めてくれてる人がいるのに
なぜ大した理由がないのに断る理由があるのかと
当時浦和南が昌平を倒して全国大会に行ったのもあり、断ることが苦手な当時の俺(学歴厨)は行きます!と覚悟を決めた
※後の大学選びもこのようなやりとりがあり、スポーツ推薦という言葉に目が眩んだ俺(学歴厨)は進学することとなる
高校
高校になって半スポーツ推薦のように入部したけど忖度は一切なし
U16のリーグに出たのなんて2〜3試合
トップチームの遠征に連れて行ってはもらえるもB戦でボコボコにされて帰る
パスもろくに繋げず、びびってロングボール
意図したプレーなんてありゃしない
考える?なにそれ相手のゴールキックを跳ね返すのが俺の仕事
だと思っていた
結果、プレーに対して言語化できず松本先生に指導をくらう日々
試合中呼び出されてオフサイドを気にしてハーフラインまで連れてかれたのはちょっと面白かった
サッカーノートにもいじめられてるんかってくらい赤大文字で殴り書きされてて流石に怯えた
けどそれがなかったらただの勢いだけの脳筋DFだったと思うし、大学までサッカーを続けられなかっただろう
練習はヘディングから始まるし
10周走右回りを左回りで走ったらやり直しだし
走り中監督とすれ違ったら挨拶だし
学校内で監督より先に挨拶されたら廊下でワンツースクワットだし
1年に坊主強要したとか言われて坊主になったし
サッカーは90分走り続けなきゃいけないって90分練習で走り続けたし
90分で終わりかと思ったら延長もあるって言われてその分も走り続けたし
真冬に試合に負けすぎて「南」の付いたもの着るなと言われ、上裸手袋で練習するやつもいたし(中島瞬史朗)
人工芝が使えるのに凍結防止剤の撒かれた土グランドで練習して、結局最後凍結防止剤また撒き直すし
高校3年
関東大会予選2試合連続でCKから先制点を取るが、西武台高校に負けてベスト8
インターハイ予選では、武南高校と後半残り5分くらいでジャンプした瞬間に足がピキーん(攣った)となって死亡
その交代した直後に失点し、延長戦で失点し逆転負け
その負けがその当時人生で1番悔しくて大泣きした
気づけば頭も丸めてた
迎えた選手権予選
3回戦で成徳深谷高校とPK戦までいって勝てばGK黒田海渡が進路が決まるところで海渡が一本目を止めてそのまま勝利(海渡あれはスーパーすぎた)
準々決勝、準決勝は難なく無失点で突破し迎えた決勝vs西武台
相手は関東大会予選で負け、県リーグも首位でこの代の西武台は攻守ともにバケモンだった
試合が始まり防戦一方の展開となり、前半最後にハーフラインから50m近くのFKを枠にとらえCKを獲得するといった奇想天外なプレー(狙い通り)を炸裂
しかし、延長後半残り3分ほど幼稚園が同じだった安木颯汰(神奈川大学)に点を取られ負けた
(幼稚園の記憶はほぼないが彼がミニゲームで点を量産していたのだけはなぜか覚えている)
結果は0-1で負け、全国まであと一歩のところで負けて高校サッカーを終えた。
大学
1年〜3年の初めまではしんどくて、辞めたいとずっと思ってた
1年の時にはIリーグで毎試合のようにボコボコにされ
同期で実家通いの5人中4人がトップチームでやってて1人で帰るのが当たり前になってたり
パスも引っかけまくって、あんなのスポーツ推薦で取るなと言われたり
始発の朝練とか
2年の時は人数が増え、当たり前のように出てたIリーグにも出れなくなったり
試合始まって10分くらいで交代させられたり
何でサッカーやってんだろう。なんてそんな余計なことを考える日々だった
正直あと2年続けられないとも感じていて、部費をまだ払わないで欲しいと親に言ったこともあった
ある日、児玉さんに良い時悪い時の波が大きいと言われ、良いもの持ってんだからと言われた
全部見透かされてると思った
そんな人間が直接変わるきっかけになったのが、3年の夏から始めた就活
そこでぶつかった自己PRという項目
嘘でも部活のことを書けなかった
血の滲むような努力なんてしてないし、誇れることなんか何もないなと
けどその時、感じさせられたのはサッカーなんてこれから先の社会に比べたらちっぽけなものだし、なにをそんなに悩んでんだろうと。
自分がやると決めたことを最後まで全力でやり切れないやつが、なに未来語ってんだって
そこから自分のためにやってたサッカーからチームのためのサッカーに変わった
サッカーと人とたくさん向き合った
その辺からコンディションも上がり、プレーも良くなり夏明けからずっとトップチームに上げてもらえるようになった
上手くいかない時、自分で解決しないで周りに聞いたり、対話して他人の意見を受け入れたりをするようになった
これが俗に言う、「他人に干渉する」と言うことだろう
4年
関東リーグは4年間を通して2度のベンチで終わり、一度も出場することはなかった
社会人リーグすらも昇格できない
結果として残せたものは何もない
けど、自分が出れなくてもチームが勝ってくれればいいって感情になれた1年間だった
最後の1ヶ月
関東リーグも終盤に入り、自力での残留が厳しくなってきた頃
最後4年としてチームに何を残すのかとなり、後輩のためになる行動をしようという言葉が出てきた
その言葉に対して納得がいかなかった
後輩のためにって言っても、漠然としてるし、感じるのは後輩次第だし、自分達で決めるものではないと思ったから
だから最後は、残りのサッカー人生を悔いのなく終わるために各々やれば良いと思った
4年間の積み上げがあるからこそ、一人一人が自分のためにやれば結果として後輩のためになると信じてたからこその答え
いくらチームのためにと言っても、所詮1人のサッカー選手なわけであって、サッカー続けない人が多いからこそ最後は自分のためにやっても良いんじゃないか。と
そして迎えた引退試合
正直コンディションは最悪
パスは引っ掛けるは、バックステップでつまずくわ
失点したと思ったらオフサイドに助けられ
いつものようにセットプレーで決められたりして負けるんだろうかと思った矢先
CKからダニエル(かける)が頭で流し込んで得点
めちゃくちゃ嬉しかった
かけるが1年の頃に2人組をずっと一緒にやってたり、セカンドで長い時間一緒にやってたからこそ嬉しかった
試合は1-0で勝利
4年前負けた場所(埼玉スタジアム2002)のサブグラウンドではあるが、そこで試合をして勝てたこと、運命のように感じた
最後の挨拶、自然と涙が出てきた
1人1人が今年1年、辛かったシーズンだったと思うし、悔しかったシーズンだったと思う。
そんな中、
引退試合だからと遠くまで来てくれて
熱い応援をしてくれて
試合終わり「お疲れ!」と声をかけてくれて
後輩達が「とべくん」とか「トゥービィー」って寄ってきてくれたり
泣いてるのか泣いてないのか分からない同期がいたり
色々遠回りはしたけれど、自分のしてきた事は間違ってなかったのかなと思えた
ピッチ内では熱くピッチ外になったらめちゃくちゃ優しい先輩がいたり
だる絡みにも答えてくれる後輩がいたり
14人という少数精鋭な同期がいたり
周りに助けられ、気付かされた4年間
部活に入ってなければ味わえなかった感情に出会えた
農大サッカー部に入ってよかった。辞めなくてよかった。
と心から思えた
サッカーを通して出会えたすべての方に感謝致します。ありがとうございました。
最後に
栄和SSS、土合中学校サッカー部、浦和南高校のスタッフの方々
大変お世話になりました。まさか大学までサッカーを続けるとは思いませんでしたが、おかげで最後まで続けることができました。
牧野先生
牧野先生が南高を勧めてくれなければ今の自分はありません。
クソガキみたいな中学生に対して、正面から向き合ってくれたり、色々な経験をさせていただきました。今度飲みに連れて行ってください。
松本先生
高校時代、担任から部活の顧問までと色々とお世話になりました。読んでくれていたら幸いです。
正直、なんで俺ばっかり指導するんだろうとか思ったりもしました。次の日学校に行くのが怖い時もありました。けど全部自分の足りなかったことについてだし、自分の成長のきっかけを与えてくれたと今になって実感しています。
卒業式の日、さりげなく「プロになれよ」と言ってくださったこと。
その期待には応えられませんでしたが、松本先生のおかげで大学サッカーをやり切れたんじゃないかと思っています。本当にありがとうございました。どこかでお会いした際は宜しくお願いします。
農大スタッフの方々
児玉さん
全てが見透かされていました。自分に波があると言ってくれたおかげで、良くない自分と向き合うことができ、成長することができました。
4年間本当にありがとうございました。
蛭子さん
1年のIリーグの時から練習中厳しい言葉とか、時に面談のように話してくれたりとか、LINEで参考動画を送ってくれたり、気にかけてくださりありがとうございました。
後期関東学院大学戦の前の練習で、ボールが飛んでった時にちょうど戸部の話をしていたと言っていたのを覚えています。後に優から内容聞きました。
期待に応えられず申し訳ないです。
4年間本当にありがとうございました。
秋吉さん
関東リーグのたびに、「あれ、今日は太鼓?頑張ってください」「関東で出てください」とか期待を込めてのいじりに応えられず申し訳ないです。
4年間本当にありがとうございました。
後輩達へ
試合に出ることが全てじゃない。本当にそう。
なんだけど、1人のサッカー選手として自分が試合に出て活躍することが存在価値っていうことも忘れないように。みんなサッカーしに入ってきてると思うから、チームのためにも大事だけどそればっかりにもならないように。
自分のために必死にやってその結果チームがよくなる形が1番いいと思う。
かい、しょうま
この2人は1番一緒に組んだんじゃないかなって思う。
しょうまに関しては大学入って初めて組んだのが俺だと思うし。プレースタイルがなんか似てる気がして自分見てるみたいだから。
2人に言いたいことは、俺が4年間で一度も出れなかった関東リーグに出て活躍してもらいたい、
これだけ。頑張れよ。期待してる!
葵
もう少しで関東リーグ出れそうなところで悔しい思いをしてたと思う。
そんな中、社会人で熱く一緒に戦ってくれてありがとう
引退試合の時にも言ったけど、来年は関東リーグで試合に出て活躍するのを期待してる!
たかし 服着ろよ
しょうた
社会人で1番厳しく言っちゃったかもしれない。
しょうたはいい奴すぎて姿勢が低すぎる。
いいとこでもあるんだけど、サッカー中は捨てた方がいいと思う。別に怒ってるわけじゃないのに、こっちが悪いみたいやん。
本当に1年間で成長したと思うし、今後に期待してるから書かせてもらった。すいません。頑張れよ!
セカンド、サードでくすぶってる人達
セカンド生まれセカンド育ちから言わせてもらうと、序列なんていくらでも変わる、プレーもそうだけど、考え方も大事だな。
頑張って。期待してます。
同期へ
竜太は、4年になってからよく話すようになった気がする。1年の時とかなんてほぼ話した記憶ない。
俺の第2の家でもあるし、まぁもう借りないかな。なんでみんなが泊まりたがらないのかは分からないけど。
試合中になったら、ボール捌いて、レオザにも警戒されて頼もしかった。まじ助けられた。
本当にありがとう。
逆張りの目黒は、2年の頃すごいタイミングよくチャンスもらってちゃっかり関東リーグ出てるし、羨ましいと思った。同じポジションとして、鼻につくこともあったけど、尊敬することも多かった。
本当にありがとう。
晃太朗は、口癖の「俺別に試合でなくてもいいし」という言葉の裏に強がってんのかなとか思ってたりしたけど、よく考えたら最終的に俺もそのマインドになってたわって思った。意外と馬鹿そうにしてるけど、考えてるんだなと思うこともあるし、試合になったらスーパーセーブしかしないし。助かった
本当にありがとう。
響は、口癖は今日バイトやぁー、と毎日バイト行ってるんかぐらいバイトしてる気がする。
試合では4分で3点取るし、前プレスいかついし。
最後の1年怪我に悩まされて悔しかったと思うけど、復帰するのに頑張ってたのもわかるし、怪我で終わったのが表には見してなかったけど、悔しかったと思うのに、最後自分のことのように応援してくれて、本当にありがとう。
ハセは、1年の時広島に帰っちゃうくらい病んでた時期もあって、俺的に4年間で1番変わったんじゃないかなって思ってる。
時間さえあれば菅又とデート(多分チームの話でもしてたんじゃないかな)してるし、俺らの学年がミスが少なく仕事早いみたいになってたのは、ハセのおかげだと思ってる。
本当にありがとう。
堀井は、キャプテンとして悩んでなさそうで意外と悩んでたんじゃないかなって思ってる。
あまり人前で感情出さないから分からないけど、むっつりすけべなことは知ってる。肩で笑うし
農大の心臓とか言われてたけど、キャプテンとしてとかは置いといて、堀井がチームにいる時の安心感はすごかった。
本当に1年キャプテンお疲れ。ありがとう。
けんとは、同期、後輩関係なくいじられて愛されてるなとめっちゃ思った。別にサンドバッグだったとかじゃなくて。
俺らの代で1番いて助かった存在だし、正直1番感謝してる。
怪我とか、主務の仕事とか、就活とか、色々あって大変だったと思うけど本当に助かったありがとう。
最後一緒に出れてよかったよ、足攣って途中交代だったけど。
みぞは、4年になって一緒に帰る回数が増えた気がする。チャリなのに歩きのスピードに合わしてくれて。2人の時は割と真面目な話をしたのを覚えてる。何人かでいる時はひたすらボケ散らかしてるし。
みぞが社会人から関東に出てるの見て心の底から嬉しかった。社会人の運営やりながらも、頑張れよといつも言ってくれておかげで頑張れたわ。ありがとう。
希とは、俺が悩んでる時は希に相談して、希が悩んでる時は戸部どう思うみたいな話をして農大通りを帰ってた記憶がある。
互いの回答に対してこうじゃないとか、それは違うっしょとか、悪いところを指摘し合えるいい同期って感じがしてた。
希はサッカーだけでなく悩み多き少年だったけど、それが吹っ切れた瞬間キレッキレになって、それが最後の1ヶ月に現れてたんだなって思った。
本当に4年間ありがとうな。
スギとは、1番農大通りを往復した相棒かもしれない。
だからこそ、スギのトップチームでの活躍を妬む時期もあった。けどそれは下級生の時の感情。
練習後に帰ろって誘ってきても、その誘惑に流されたらなんも差がつかないと思って、俺ルーム行くわとか言って断ったりもした。
気づけばライバル意識が芽生えていたのかもしれない。
一緒に帰れば、クソどうでもいい会話について深く喋ったり、スギが俺が何言いたいのとか勘付いてくれたりするレベルにまでなった。
引退試合の日スギは関東リーグ最後出れなくてめちゃめちゃ悔しかったと思う。あの時は悔しさを押し殺してたの感じたし、だからこそなんて声をかければいいか分からなかった自分が情けなかった。
それでも次の日俺らの引退試合には全力で応援してくれて、めっちゃ嬉しかったよ。
4年間本当にありがとう。
マネージャーへ
目があっただけで理解してくれる優
マイペースだけど目の付け所がいい悠
選手名鑑丸暗記してるんかってくらい知識量の豊富なあいさく
マネージャーという立場で、自分の時間を削ってまでサッカー部に力を注いでくれてありがとう。
色々あった4年間だったけど辞めないで最後まで続けてくれて本当にありがとう。
両親へ
この場を借りて感謝を伝えます。
父
小学生の時から大学に至るまで、遠くの試合まで見にきてくれたり、送迎してくれたりしてありがとう。
高校の時、部活に力を注いでくれていたのに1回本気で切れてしまって後悔してます。
あと意外とこうすればとかのアドバイスに対して、反論してたりしたけど、意外と参考にしたりしてました。ありがとう。
母
高校の時にはお弁当を毎日作ってくれてありがとう。
大学では、辞めたいって言った時に何も言わずにそっとしておいてくれてありがとう。
毎日明日何時起きって聞いてくれてなんだかんだ起こしてくれたおかげで、4年間無遅刻で行けました。本当にありがとう。
読んでいただきありがとうございました。以上で引退ブログを終わらせていただきます。
次回は、口癖はバイトやぁー、4分で3点取る男。
お笑い大好き、家で1人でTVの前で大爆笑してるとかしてないとか
農大のハイプレッサーこと溝口響。
怪我に悩まされて、TM国士舘が引退試合となってしまった彼は何を語るのか。
意外と心の内に秘めた熱いきもちがあるはず。
きっと熱くなりすぎて関西弁が出てしまうことでしょう。
乞うご期待!
〈思い出の写真〉








