大学サッカー時代
ついに待ちに待った
最終章 東京農業大学編に突入する。
サッカー人生の集大成の場所だ。
まずは、東京農業大学に入学する経緯から説明しようと思う。
瀬戸内高校は進路選択の時期になると、
田中先生との1体1の面談が始まる。
そこで、自分の進路の選択を相談する。
第1希望の大学は、産業能率大学だった。
理由は、
関東2部でいい感じに強そうだった。
そんな理由だった。
関東1部は出れるかわからない。
関東2部なら出れるかも。
そんな甘い考えだった。
何も考えていなかった、
そこで、田中先生に提案されたのは、
東京農業大学。
初めて聞いた大学だった。
農業大学?農業させられんの?
どこ?何部リーグ?強いの?
全く知らなかった。
なんで東京農業大学なんですか?と聞くと、
東京農業大学なら
スポーツ推薦で行くことができる。
しかも、レベルも竜成に合っている。
と言われ、
ここにしようとすぐに決断した。
決断した理由は、
受験したくなかった。
勉強したくなかった。
その程度の理由だった。
今回も高校を決めた時の流れに似ている。
推薦が来て、悩むことなく即決断。
自然と決まった大学。
そこからは、
東京農業大学の情報を入れるようにした。
東京農業大学に行くとみんなにいうと
え?農業すんの?
農大生なら絶対に言われるやつ
バカにされた。
そんなに気にしてはいなかったけど。
そんなこんなで
行くまでは、農大について全然知らなかった。
夏には、2泊3日で爲岡と練習参加に行った。
1日目は、土のグラウンドだった。
2日目は、芝でできたが、熱中症でダウン笑笑
その時練習参加で出会ったのが、栗原大輔だ。
第一印象は、サッカーはそんなだけど、いいやつそうだな。
こんな印象だった。
農大の練習の雰囲気はとても良かった。
仲がいいのも伝わってきたし、
監督と選手の関係性も良かった。
三浦監督の褒めて伸ばすコーチングも
今までそんなに褒められたことがなかったから嬉しかった。
ここでサッカーをしたいと思えた。
その時どうやら、
関東2部に昇格しそうという情報もあった。
でも、実際は昇格出来ていなかった。
入学時には、東京都1部リーグだった。
大学サッカーの物語は、
東京都1部から始まった!
入試の時、
初めて喋ったのが藤井健悟だった。
茶髪の好青年だった。
今とは印象が全然違う。
そんなことはさておき、
入試も無事に受かり
入学式!
サッカー部に入る仲間とのご対面
色んなやつがいた。
入学式スーツで撮った写真がこれ。
この時写ってない人も何人かいる。
写ってるけど居なくなった部員も何人もいる。
FC東京?流経?矢板中央?鹿島学園?神戸弘陵?関東第一?
全国大会でよく見るような高校ばかりだった。
またレベルが上がったのか。
次は、ここで勝ち抜かなきゃいけない。
大変な戦いになりそうだ。
東京に出てきた分
絶対に1年生から試合に出て活躍する。
そう意気込んで練習に行った。
まず、最初にしたのがクーパー走
走りに関しては、
高校の時に死ぬほど走っていたこともあって
別に怖いものはなかった。
難なく、3200mはクリアした。
その時トップを2人で走っていたのが、
八千代松陰高校出身 藤井健悟だった。
なんだこいつ。チャラいのに走れるんかい。
そんな印象だった。
同じポジションだったから、
この時くらいからライバルとして
少し意識し始めていた。
練習が始まり、
農大は、
Aチーム Bチームの2カテゴリー構成
推薦組は、基本的にAチームのカテゴリーに合流して練習が始まった。
先輩は
ユース出身ばかりで、流経 前橋育英 市立船橋
全国常連校ばかりだった。
圧倒された。
圧倒されてばかりだった。
通常の練習が強度が高すぎて、
ついていくのが精一杯だった。
毎日が地獄だったのを覚えてる。
切り替えのスピード
球際の迫力
体力
フィジカル
何もかもにレベルの差を感じた。
これが大学生か。
その頃の4年生は、
みんなものすごく大人に見えた。
かっこいいし、ごついし、大きくて、面白い。
こんな風になりたいと思った。
練習は徐々に慣れていった。
試合も少しずつ始まった。
最初のカテゴリーはIリーグだった。
健悟と同じIリーグ
俺が左サイド 健吾が右サイドだった。
結果を残さないと。
少し心に焦りがあった。
そんな焦りが心にある中、行われた
5月23日
国士舘大学戦だった。
後半左サイドでドリブルをしている時に、
切り返しの瞬間、
「グリッ」
嫌な雰囲気がする。
膝を内側に捻ってしまった。
半月板損傷だった。
まただ。
またこれだ。
これからって言う時にいつもこれだ。
しかも、前回と違う左膝だった。
また怪我でチャンスを逃す。
この怪我した後くらいから藤井健悟が覚醒し始める。
都リーグの試合に呼ばれ始めた。
健悟は、一年生でトップチームの試合に出始めた。
同期の同じポジションの選手が試合に出ている。
嬉しい気持ちよりも、悔しかった。
怪我してなかったら、自分が出ていたかもしれない。
と考えると、悔しくてたまらなかった。
同じポジションの選手には負けたくない。
復帰したらすぐにポジションを取り返してやる。
その思いでリハビリを重ねた。
そこから
トレーナーの徳さんとリハビリ生活が始まった
ここから徳さんとは友達くらい仲良くなった。
靴ももらった。
最後までボロボロになりながら履きましたよ!
怪我人のメリットは
トレーナーと仲良くなれることかかな?
徳さんには感謝しかないです。
この期間東京に来て間もなかったことや、
怪我をしていたこともあり、
めちゃくちゃ遊んだ気がする。
練習の有無関係なく、オールで遊びに行ったり、睡眠時間を削ってまで遊んでいた
やんちゃ時代、、、
そんな遊び呆けていた時期もあったが、
少しずつ順調に膝が治っていたこともあり、
怪我をして4ヶ月くらい経過した9月くらいから復帰し始めた。
復帰後は、順調だった。
4年生を除いた新チームでの試合があった。
柏レイソルユースとの試合だった。
442の左サイドハーフで試合に出場した。
藤井は、右サイド
まだこの頃は、俺が左サイドハーフかー。
ここで、大学サッカー初ゴールを決める。
なんとも泥臭いゴールだった。
相手のバックパスを取って、ゴールを決めた。
自分らしいゴールだった。
嬉しかった。
やっと結果を残せた。
そこからは、中央学院大学との練習試合でも点を決めて絶好調だった。
その結果が、三浦さんに認められて、
天皇杯予選の朝鮮大学戦の後半途中出場をした。
この時一緒にトップチームにデビューしたのが青木凱だった。
結果は、後半にコーナーキックから得点を決められて負けた。
デビュー戦は、敗北から始まった。
次の週の専修大学戦でまた膝の怪我が再発をした。
これで、1年生のシーズンが終了した。
三浦さんは、その週の調子をみて週末の試合のメンバーを組むスタイルだった。
自分が調子がいいなと思ったタイミングでチャンスが巡ってくる機会が多かった。
毎回の練習がアピールの場だった。
練習にモチベーションを高くいくことができた。
三浦さんが言っていた言葉にすごく印象的に残っている言葉があった。
「お前らは家畜か、与えられた餌を何も考えずに食べている家畜だ。」
と最後の話の時に言っていた。
とても心に刺さった。
ただ練習に行き、与えられたメニューをこなす。
そんな生活をしていても何も成長しない。
これは、社会に出た時にも必要な生きる知恵だと思う。
与えられたことを何も考えずにやっていても何も成長しない。
ただの家畜だ。
毎回の練習に目標を持って練習に行き、
与えられた練習メニューをただこなすのではなく、
なんのためにこのメニューがあるのか、
このメニューをする監督の意図はなんなのか。
限られた練習時間で何ができるのか、
前回の練習からの改善点を活かしていけているのか、
この言葉のおかげで、少しずつ考えて練習をするようになっていった。
2年生からは、三浦さんが異動になってしまったため、
児玉さんが監督になった。
そしてコーチに蛭子さんが来た。
ここから地国がはじまった。
シーズン初め
怪我も順調に治っていて、調子は良かった。
都リーグ登録だった。
第3節 帝京大学戦 初めての都リーグのベンチ入りをした。
結果は0−1 負け
出場機会はなかった。
これ以降半年間ずっとバックアップで公式戦に1試合も出れないという地国のような生活が始まった。
毎試合行ってやることは、ビデオ撮影
ずっと貫太郎くんとビデオ撮影していた。
どの会場に行ってもビデオ撮影。
なんのために農大に行ったのか。
カメラマンだっけと思う時もあった。
怪我をしていたならまだわかる。
調子が悪いならまだわかる。
トップチームと一緒に練習をしているのに、試合に出るチャンスが回ってこない。
なんのモチベーションでサッカーをすればいいのか、
わからなかった。
でも、腐ったら負けだと思っていた。
瀬戸内高校の時の教えを守って貫き続けた。
どんな環境でもやることを変えない。
自分に出来ることを100%する。
手を抜かない。
腐らない。
上を見続ける。
直向きにやり続けた。
後期になり、やっと公式戦 Iリーグで試合をする機会がもらえた。
楽しかった。
相手は、めちゃめちゃ強かったけど、公式戦に出ることができる。
それだけで楽しかった。
2年生の時のIリーグは本当に楽しかった思い出がある。
りく君、ゆずき君を中心にチームで戦って勝つ。
全然勝ててなくても、相手がどんなに強くても諦めない。
試合後にみんなで話し合ったりもした。
なんで勝てないのか、何がいけないのか。
全員が勝つために考えていた。
一勝のために全員で戦っていた。
城西戦 みんなで掴んだあの一勝は、忘れることはない。
泣いて喜ぶくらい嬉しかった。
最高だった。
久しぶりにサッカーの楽しさを思い出した気がした。
全員で勝つ
あの感覚が忘れられない。
一方、その頃東京都リーグは、関東リーグへのプレーオフの進出を決めていた。
対戦相手は、明海大学
メンバーには入れず、
バックアップで、明海大学に応援に行った。
前半 0−1
やばい。また東京都リーグか、、、
後半 3−0
逆転勝利をした。
そこに自分の姿はなかった。
昇格の舞台に自分の姿はなかった。
みんなが喜んでいる姿をみて、
また素直に喜べない自分。
ずっと悔しさがあった。
試合に出て勝たせたかった。
その後、行われた関東2部参入戦
関東2部参入戦は、メンバー入りを果たした。
久しぶりにトップチームに戻ってきた。
久しぶりの感覚。
みんなに応援される感覚嬉しかった。
しかし。相手は、
・作新学院大学
・専修大学
・神奈川大学
・東京経済大学
・山梨学院大学
結果は、全敗。
作新学院大学 1−5
専修大学 1−3
神奈川大学 0−1
東京経済大学 1−3
山梨学院大学 2−4
関東3部、2部でよく見る相手ばかりだった。
何もできなかった。
この時、関東の力の差を痛感した。
来年から、こんなところで戦うのか。
プレーオフ後に行われた天皇杯予選
相手は、中央大学
結果は、0−6
何も歯が立たなかった。
圧倒的な力の差。
情けなかった。
ちっぽけに感じた。
今までやってきたのは、なんだったのか。
目覚めさせられた。
このままじゃ関東では戦えない。
そう実感できる年だった。
あっという間に2年生が終了した。
気付けば、3年生が始まった。
この感覚は、1年生2年生にはまだわからないかもしれない。
何も考えずに大学生活を送っていると一瞬で時が過ぎてしまうこの感覚。
今の3年生は少しわかるのかな。
4年生は、共通して持っていると思うこの感覚。
一瞬で時は過ぎてしまう。焦り。
サッカー人生も残り後2年、
この2年が自分にとって大きく人生を変えることになる。
とてもとても濃い2年間の始まりだ。
まずは、シーズン開幕前に行った新3・4年合宿
事件が起きる。
新良介
走りの途中で勝手に抜ける事件
この問題を解決するために学年MTGを開催した。
でも、肝心の問題を抱えている新良介は、追試でいなかった。
大体、問題を抱えている人は、こういうMTGに真面目に参加しない。
これは、今までMTGをしてきてわかったこと。
こんな問題を解決しつつ、
この頃から、学年として一つになり始めてきた気がする。
バラバラだったものがぶつかり始めた。
MTGも少しずつ始まった。
3年生の時にしていたMTGは、起きた問題を解決していくようなMTGばかりだった。
全然まとまらないMTG
MTGもバラバラだった。
児玉さんや4年生に言われてただ言われたことをするだけのMTG
そんなMTGをこなしていた。
言われてからやる受動的なMTGばかりだった。
合宿が終わり、関東3部リーグが始まった。
今年は、シーズンの初めからベンチに入ることができた。
第1節は、城西大学だった。
結果は、
1−1
まずまずの滑り出しだった。
第2節 明治学院大学
なんとスタメンだった。
このチャンスは絶対に掴みたい。
スタメンの半分以上が同期。
しかもスタメンには、バイビジの仲間が4人もいる。ベンチには、レオがいる。最高な状況だった。
後半になり玲於と交代。
結果は、4−1
圧倒的な力で勝利した。
いける。このままいけるそう思った矢先、
第3節 中央学院大学に0−2負け。
一気に勢いを落とされた。
そこからは、慶應、神大、専修、東経、東京学芸と試合をして第8節まで終了した。
そして、アミノバイタルの予選が入り、
平成国際大学との試合が行われた。
いつもサブで試合機会のないメンバーを中心に構成されたチームで戦った。
結果は、3−4で負けた。
自分としては、得点を決めて、結果は残したがチームとしては、負け。
不甲斐なかった。
勝たせられなかった。
試合に対して、悪いイメージがついてしまった。
そのイメージを持ったまま第9節國學院戦に臨んだ。
結果は、2−2 同点
途中出場をした。
ゴール前でチャンスが来たが外してしまった。
ここから共栄、平成国際、國學院、神大と4試合ベンチには入ったが、試合では起用されなかった。
その後、福島での合宿を経て、後期に向けて再スタートをしようとしていた、その時だった。
夏休みの練習
2024年9月13日
その日は、上げ日だった。
3−3をしている時だ。
藤井健悟に後ろからタックルをされて、
変な足のつきかたをして、
「バキッ」
死ぬほど痛かった。
最初は、足首を捻っただけだと思っていた。
味わったことのない苦痛だった。
病院へ行き、レントゲンをとり、
診断されたのは、
第五中足骨骨折(ジョーンズ骨折だった)
綺麗に入った横線
手術か自然治癒か悩んだ。
でも、メスを入れた方が早く治るし、再発の可能性が低くなる。
これまで人生で手術をしたことがなかった。
体にメスを入れることは嫌だった。
だから自然治癒を選んだ。
選んだ瞬間
2023シーズンが終了した。
しかし、
このジョーンズ骨折によって、人生が大きく変わり始めた。
医者には、
「とりあえず1ヶ月松葉杖で生活してください。」
松葉杖生活が始まった。
1ヶ月目は、早く復帰できることを信じて小栗接骨院と家の行き来しかしなかった。
松葉杖移動はしんどかったでも、復帰のためにひたすら頑張った。
1ヶ月が経過して、豪徳寺接骨院での診察の日。
医者に言われたのは、
「松葉杖1ヶ月延長だね。」
泣いた。耐えられなかった。
またこの生活か。
どうしよう。
残り少ないこの期間を無駄にしたくない。
練習も行けないし、何かできることをしよう。
そうだ就活をしよう!
ここから
湯川竜成は、自分探しの旅に出始めた。
いろんな企業を見始めた。
大手・中小企業・スタートアップ企業などの経営規模が様々な企業
食品・IT・衣類・不動産など様々な業種
いろんな観点から企業研究をした。
そこから、
インターン先をIT企業とスタートアップ企業に絞ってインターンに参加した。
インターン先は、テックベースというITのインターンシッププログラム
期間は、1ヶ月。
全4チーム、各チーム5〜6人のチームで協力をしてプログラムを学びながら、
みんなで協力をしてポイントを競い合うようなインターンだった。
参加していた大学は、法政大学、日本大学、慶應義塾大学、関西学院大学、静岡大学などいろんな大学の人がいた。
自分は、リーダーに選ばれた。
こう見えて、人生で初めてのリーダーだった。
周りのメンバーは、自分よりも偏差値の高いメンバー。
まとめられるか不安だった。
これまでの人生で
こんなリーダーは嫌だ。こんなリーダーにはなりたくない。
という形は明確にあった。
それは、強制させるリーダー。命令してやらせるリーダーだった。
こんなリーダーにはなりたくなかった。
自分の理想とするリーダー像は、
常に仲間の中心にいるようなリーダー。
仲間のことを支え、仲間から支えられるようなリーダー。
みんなが生き生きとしているようなリーダー。
そんなリーダーを目指していた。
ついに、チームとしての活動が始まった。
チームの名前は、風だった。
見ず知らずのメンバーをまとめて一つの目標に向かって進んでいく。
初めてのリーダー経験
どこまで自分はサッカー以外でも通用するのか。
サッカー以外でチームで協力して勝負するこういうチャレンジは初めての試みだった。
1週間に1度 各チームが集まって進捗報告の機会があった。
そこでポイントだったり、各チームでの決まり事などが共有された。
最初、チーム風は、ポイント数が最下位だった。
焦った。
やらせるではなくて、自発的に行動できるチームを意識した結果だった。
他のチームよりも出だしが悪かった。
一位のチームとは、ポイントが離れていた。
一位のチームがやっていたルール。
一日2時間以上は作業するというものだった。
典型的な強制的にやらせるチームだった。
でも結果がすぐに出る。
このチームには、絶対に負けたくなかった。
追いつくための改善策として、
チームビルディングをしようと考えた。
みんなが自発的に行動しやすい環境を作る。
そのためには、何をするべきか。
どうすれば自発的に行動しやすい環境を作ることができるのか。
考えた。
自分がチームで動く場合
自発的に行動をするときは、どんなときだろう。
そこで出てきた条件は、
目的・目標が明確になっている。
そして行動しやすい環境がある。
二つの条件が揃っている時だった。
そこから出てきたやるべきこと
チームメンバー同士のコミュニケーションを活発にする。
目的と目標の明確化する。
コミュニケーションを活発にさせるために、
チームメンバーの仲を深めたり、メンバーのことを知るきっかけを作った。
目的と目標を明確にするために
なんのためにこのインターンに参加したのか。
インターン後にどうなりたいのか。
各メンバーの目的と目標を整理してみんなで共有をした。
みんなで目的と目標の共通認識を持てるように話し合う場を作った。
全員が協力して自発的にできるような環境作りを心がけた。
結果はすぐには現れなかったが、
2週目、3週目と点差が徐々に縮んでいった。
そして、最終の結果発表の日になった。
最後の週は、ポイントが隠されていたため、何点か把握できなかった。
1〜3週目まで途中経過のポイント数で一位にはなれていなかった。
一回も一位ではなかった。
それでも諦めずに全員で協力して頑張った。
結果発表
1位 チーム風
え?風?
聞き間違えかと思ったけど、合っていた。
まさかの大逆転勝利だった。
ドラマのような展開だった。
優勝チームのリーダーインタビュー
まさか優勝すると思っていなかったので、何も考えていなかった。
何を喋ろう。
出てきたものは
メンバーへの感謝だった。
全員で協力して何かの目標に全員で進んで達成する。
↑
これをしている時が自分が1番熱中して楽しいと理解することができた。
ここで、自分がここまでサッカーを楽しんでいた理由に気づくことができた。
それに加えて、サッカー以外でも輝くことができる。
今まで勝手に閉ざしていた可能性が広がった。
そして、第2の人生のスタートも言える出会いを
2024年10月31日(ハロウィンの日)にすることになる。
研究室で、パソコンをいじっている時だった。
就活もしながら、将来何しようかなー。
路頭に迷っていた。
昔から人の下で働くことが向いていないと思っていたので、
なんかいいものあれば起業をしたいなーとぼんやりと思っていた。
起業かー、
今するとしたら流行ってるし。
アサイーかなー?
カフェも好きだから、アサイーカフェでもしようかなー?
そんな適当な思いで、パソコンでアサイーを調べていた。
アサイーってなんなんだろう。
スーパーフードかー。
健康にいいんだー。へー。
これで起業はきついなー。
他にもスーパーフードを見てみようー。
キヌア ケール 納豆 デーツ スピルリナ アボカド
まー聞いたことあるようなものばっかりだなー。
知ってるなー。
急にふと現れた。
見たことのない名前がそこにあった。
その名も
「モリンガ」
なんだこの植物は。。。
見たことない。
最初は、なんだこれ。
そう言った疑問から調べていった。
モリンガ
調べると1番に出てくるのは、
「地球上で最も栄養価が豊富な植物」
え? なんだそれ。
よく見てみると、
葉っぱには、食物繊維、ビタミン、ミネラル、アミノ酸が豊富?
なんだこの植物は、
こんなにすごい植物を今まで知らなかったのか。
自分だけ知らないだけかもしれないと
すぐに、更衣室にいた大輔に言った。
モリンガって知ってる?
案の定知らなかった。
これは、可能性がある。
モリンガに出会ってから
のめり込むようにモリンガについて調べ続けていた。
ひたすら研究室に篭って、朝から晩までモリンガを調べた。
すると、どんどんモリンガの凄さを実感し始める。
「奇跡の木」
本当にこの名前が相応しい木だと思う。
日本では、根っこがわさびに似ていることから
「ワサビノキ」
海外では、
多目的な利用が可能なことから
「マルチパーパスツリー」
果実の形態から
「ドラムスティックツリー」
種子から取れる油から
「ベンオイルツリー」
インドやスリランカでは、
300の病気を予防する
「薬箱の木」
と呼ばれていたり、
伝統医学のアーユルヴェーダでは、5000年も前から生薬として使用されている。
もっともっと魅力は伝えたいのですが、
ここで書き始めるとキリがないので、
気になる方は、下記のインスタグラムに飛んでください。
https://www.instagram.com/moringal_win/profilecard/?igsh=YTYxaW5rdWxiZnEy
モリンガに出会い
モリンガと一生一緒に生きていくと決めました。
そして、いろんなご縁のおかげで2月5日に法人を設立させていただきました。
会社名は、
「株式会社モリンガルウィン」
法人設立までの流れも長いので省略します。
興味のある方は、インスタグラムのフォローをしておいてください。
いつかちゃんと発表します。
宣伝っぽくなってしまい、今回の目的とは違うので、会社の説明はこのくらいにしておきます。
そんなこんなで気づけば
農友会サッカー部副将兼代表取締役
という異例な役職持ちになっていた。
ここから、
サッカーとモリンガの2軸の生活が始まった。
最初の方は、怪我人だったので、あまり影響がなかった。
そして、4年生が引退し、
新チームの幹部の発表が児玉さんから伝えられた。
キャプテン 藤井健悟
副キャプテン 伊藤蒼太郎・湯川竜成
主務 栗原大輔
学連 榮村駿太
残り1人の副キャプテンは、
みんなで悩んだ結果
新 良介
に決定した。
以上の幹部メンバーで最後のシーズンを戦うことが決定した。
そして、2024シーズンに向けての準備が始まった。
冬の長期オフが終わり、
ジョーンズ骨折も安静にしていたため、綺麗に骨もくっつき、
オフ明けの練習には間に合い、
全員と同じスタートを切ることができた。
怪我の安静期間が長すぎて全然動けていなかった。
シーズン前の準備期間
悪魔の2週間が始まる。
体力を戻してあげて行くために、
毎回の練習で走った。死にそうだった。
久しぶりの感覚だった。
練習に行くのが憂鬱になる。
足が重くて進まない。
頭の中が走ることでいっぱい。
きつかった1週間が終了した。
それと同時に湯川竜成は、フィリピンに旅立った。
この時くらいからか。。。
湯川竜成 サッカー人生史上 1番の迷走期に突入する。
優先順位選ぶべき順番が逆になり始めていた。
みんながきつい1週間を農大で過ごしている時、
フィリピンにいた。
卒業論文のために、モリンガを見にいっていたのだ。
今思えば、何をしてたんだろうと思う。
副キャプテンという立場の選手がチーム立ち上げにいない。
誰がこんなやつについて行くのか。
優先順位
これは人生で1番間違ってはいけないものだと思う。
そして、フィリピンから帰ってきてすぐに、
沖縄合宿があった。
全体を通して楽しかったことは、間違いない。
カテゴリーは、1番下だった。
4本目の選手
怪我明けだし最初は、そんなもんかと思っていた。
でも、一度もトップチームの試合に出ることはなかった。
最終日前日かな?
地国のチーム4年生10人対相手11人の試合もあった。
全員足がボロボロになるまで戦った。
あの時は、みんな楽しかったね。
最高の思い出だよ!
まだ頭の中は、楽しかった。
気づいていない。
大事なことに。
児玉さんからのメッセージ。
そして、沖縄合宿が終わり、
帰ってきて、練習が始まった。
菅原涼太の姿がなかった。
今も自分は、なぜやめたのか知らないが、もうすぎたことなので、そっとしておきます。
涼太がいなくなり、また同期が減った。
沖縄合宿が終わった頃くらいから
あまりサッカーの調子も良くなくて、体も全然動いてなくて、
自分のことしか考えていなかった。
悩んでいる時に、
児玉さんに呼び出された。
「最近調子どう?」
自分は、
「調子が良くないのは、怪我明けで体が動いていないからですかね?」
と答えた。
そうか、
児玉さんからは、副キャプテンとしての影響力について話された。
お前が言ったことは、些細なことでも、
下の学年の人たちは、聞いている。
もっと発言する内容を考えた方がいい。
そう言われた。
自分は、きつい時に、
「きっつ」「まじか」
心の声がそのまんま漏れてしまう人だった。
よく言えば思ったことを素直に口に出すやつ。
悪く言えば、自分勝手な馬鹿野郎かな?
背中を見せるものとして、
なんでも思ったことをポジティブネガティブ関係なく考えずに口に出す人。
口に出す言葉を相手がどう捉えるのか考えて口に出す人
自分がどっちについていきたいかと考えたら、
圧倒的に後者である。
ここから思ったことをすぐに口に出すことはやめて、
しっかり自分の中で考えて口に出すようになった。
まだ完璧ではないと思うが、少しずつできてきた実感はある。
そして、
2024年3月18日
会社のMTGで4月から八丈島で農業を始めようという話が上がった。
そこからは、会社のために生活のために、
八丈島に1ヶ月に一回1週間行かなければいけないかもしれない。
という悩みを抱え始めていた。
その悩みを抱えながら、練習をした。
全然身が入らなかった。どうしよう。
もし行くとなったら、
農大でサッカーをプレイヤーとして続けることは難しい。
行かないとなれば、
会社として何も動くことができずに、
就職もしないと決めていたので、
卒業後に稼げないので、生きていく術がなくなってしまう。
究極の二択を迫られていた。
親に相談した。
そこで、出た結論
1ヶ月に1回八丈島に行かなければならないため、
サッカープレイヤーとしては、できなくなる。
でも、農大サッカー部には関わって行きたい。
だからプレイヤーとしてではなく、サポートする立場として今後関わっていきたい。
これを児玉さんに伝えた。
児玉さんからの答えは、
「同期の意見は聞いたのか、考え直してこい。」
そこから
4年生の同期のみんなと1体1で相談をして、
これに対してどう思うのかを聞いていった。
意見が二つに分かれた。
サッカーに戻るか、やめるかという意見の人
八丈島やりながらでもサッカー部にいてほしい人
みんなの意見を聞いた。
昔一緒にサッカーをしていた友達にも聞いた。
それでも自分は、
また自分のことしか考えていない選択をした。
八丈島に行きたい。
自我の塊だった。
自分の将来のことしか考えていなかった。
今まで一緒にサッカーをしてきた仲間。
応援をしてきてくれた友達。
サッカーを教えてくださった指導者の方々
お世話になってきた応援してくれた保護者。
そして両親。
いろんな人のことを考えていなかった。
今の自分がここにいること。
東京農業大学に入学できたこと。
農友会サッカー部に入部できたこと。
サッカーができていること。
株式会社モリンガルウィンを設立できたこと。
今生きている中で、当たり前にできていること。
その全てが自分だけの力でできていないことに気づいた。
今の自分がここにいるのは、
今まで関わってきてくれて人たちのおかげで今の自分がここにいる。
これに気づけたおかげで、
もう悩むことがなくなった。
気づかせてもらった。
農大の仲間
瀬戸内高校の仲間
児玉さん
多くの人を思い出したおかげだと思う。
今ここにいるのは自分だけの力じゃない。
これに早い段階で気づけるかどうかがこの経験からすごく大事だなと思う。
みんなありがとう!!
ここで得た一生忘れない価値観
無我 感謝
これに気づいてからは、早かった。
とんとん拍子で、大学院に行くことも決まった。
これによって、進路も決まり迷うことは一切なくなった。
練習もなんの迷いもなく、取り組むことができた。
試合に出ていなくても、メンバーにはいっていなくても全力で農大を応援した。
1年間ずっと、農大が勝つためにはどうしたらいいのかを考えた。
大迷走時代が終わり
湯川竜成
無我 感謝 の大切さに気づく
常にチームのためにということを考え行動をして、練習をした。
そこに自我はなかった。
常にサッカーができていることに感謝した。
そして、
第9節 亜細亜大学戦
2024シーズン初のベンチ入りを果たす。
アミノバイタルが終わり乗りに乗っていた
亜細亜大学だった。
この時考えていたのは、どうやったらチームが勝てるか。
今までの自分だったら、
どうやって自分の結果を残そう。
チームが勝つために、次スタメンで試合に出るために、自分が点を決める。
我欲を出していたと思う。
我欲を出すから緊張するし、点を決めることができるのか不安になって、プレーに波が出る。
チームが勝つために、
目的のために自分が何をすればいいのか考えることができれば、
何も気負うことはなくなった。
ただ、チームが勝つためにやるだけ。
後半途中出場をした。
結果は、1−0で勝利した。
嬉しかった。
試合に出ていたメンバーも瀬戸内高校ばかりだったから
瀬戸内高校としても結果が出て嬉しかった。
そこからは、順調に見えた。
次の試合は、作新学院大学だった。
2年生の頃、歯が立たなかった相手だった。
第10節 作新学院大学戦
また、後半途中出場
チームのために走った。
すると、後半44分
響のアシストで点を決めた。
シーズン初ゴールだった。
この時、シュート1本中1ゴール シュート成功率100%
結果は、3−1で終了。
第11節 国際武道大学戦
この日も、後半途中出場
出た時は、2−3で負けていた。
チームを勝たせるために全力で走った。
後半52分 得点を決めたが、
結果は、3−5負け
今まで失点が少なくきていたが、今季初の大量失点。
第12節 國學院大学戦
この日もベンチスタート
前半終了して、0−4
この日は、ハーフタイム後からの出場だった。
何度かチャンスメイクをするが
後半0−0
結果 0−4負け
2試合で9失点してしまった。
不甲斐なかった。
第13節 青山学院大学戦
夏休み前最後の試合だった。
今シーズン初スタメンだった。
農大は、システムを4321に変えて戦い始めた。
初めての4321で戸惑いはあったもののやることは変わらない。
全力でチームのために走るだけ。
試合早々に顔面を蹴られるアクシデント。
それでも、関係なく、戦った。
結果は、1−1 引き分けで終了した。
夏休み前までの結果は、
勝ち点23 得点21 失点17 得失点4
順位は、1位だった。
4年間農大にいて初めてのリーグ展開だった。
1位で折り返した。
そこからオフに入り、
オフ明け
菅平での合宿
サッカー人生最後の合宿。
この合宿も濃くて長い合宿だった。
学年対抗のレクでは、雅堂さんが覚醒するし、
ちゃらけすぎて勝てない感じ。
俺らの代っぽかったけど。
負けたあとの身を清めるための罰ゲーム滝行はいい思い出やな。
あとラジオ体操。
一生忘れんな
あの寒さ。
風呂もみんなで語りながら入って、最高だったなー。
ビンゴ大会も楽しかったなー。
まだビンゴ代を払っていない
藤井健悟
新良介
荒木俊輔
早く支払ってください。
墓まで請求しにいくよ?
合宿が終わり
ここで農大が大きく変わったのは、
チーム力の強化
そして、圧倒的な戦術理解。
湯川竜成
合宿後から謎の股関節負傷
股関節に爆弾を抱えながら、後期リーグを戦うことになる。
毎試合 後半20分くらいからの出場のパターンになる。
1週間その後半20分以降のために準備をしていく。
そんなルーティーンになっていった。
高津さんと話し合いながら調整をして試合に臨む。
高津さんいろいろお世話になりました。
高津さんのおかげで最後までサッカーすることができました。
ありがとうございます。
後期が始まって、
とんとん拍子で試合が進んで行った。
第14節 専修大学
両チーム撃ち合いの末
4−3 勝利
第15節 中央学院大学戦
この日は、ホームカミングデーとも重なっていたため、
チーム裏方が仕事をまっとうしてくれたおかげで難なく成功した。
試合結果は、2−0勝利
第16節 平成国際大学戦
前半早々に相手CBがレッドカードで退場
結果は、6−1で勝利。
第17節 作新学院大学戦
相手チームは、チーム内での問題があったかなんかで本調子ではなかったらしい。
そんなことはお構いなく、
怒涛の攻撃ラッシュで、
6−0 勝利
試合会場に駆けつけてくれた同期のメンバー。
少数精鋭の最高の応援だったよ!
ありがとう!
第18節 明治学院大学戦
ここら辺から優勝が目前に見えてきていた。
相手チームの選手が前半で退場をして、
前半から11対10の状況で進んだ試合。
勝てば優勝に大きく近づく試合だった。
結果は、0−0 引き分けた。
痛い痛い引き分けだった。
ここから少しずつ勝ち点をこぼし始める。
第19節 亜細亜大学
この試合は、広島県から母さんが試合を見にきていた。
親が自分の試合を見にくることができる最後の試合だった。
後半 途中出場をした。
この試合の記憶はない。
脳震盪だ。
ゴール前浮いたボールをオーバヘッドした時に、頭をぶつけてフラフラしていたらしい。
試合は、全部でたが、試合前中後の記憶が一切ない。
なんと、最後の母さんが見にきてくれた試合は、記憶がない。
なんという最後なんだろうか。
不幸中の幸いで親がいたので、病院などの流れはスムーズだった。
第20節 東京経済大学戦
ホーム最終戦だった。
そして、勝てば関東大学サッカーリーグ2部昇格が決定する試合でもあった。
それに加えて、この日は、サッカークリニックもあり、
多くの方々が試合を応援しにきてくれた。
自分は、脳震盪で練習をしていなかったので、練習できない分を全てチームのために、
サッカークリニックの運営に全ベットした。
めちゃくちゃ考えた。
200人以上の子供が来る。
アルバイトで保育園と体育の先生をしているが
流石にこの人数をまとめるのは、初めてだった。
サッカークリニックに関しての感想は、
違うブログに書いてあるので、気になる人は、下記のブログのリンクに飛んでください。
https://tuafc.cs-park.jp/blog/detail/id/31997
無事にサッカークリニックは、成功した。
みんなの協力のおかげです。
ありがとう!
試合の結果は、
2−1 勝利
ホームで関東大学サッカーリーグ2部昇格が決定した。
人生で初めての経験だった。
こんなに大きなリーグの昇格に携わることができた。
自分たちの代で昇格させることができた。
昇格させることができたのも自分たちだけの力では無理だったと思う。
先輩後輩 OB・OG 農大を応援してくださっている方々などその他大勢の思いがあってこその昇格だと思います。
日頃から応援してくださっている皆様
改めてありがとうございます。
心から感謝しております。
これからもどうぞ東京農業大学 農友会サッカー部をよろしくお願いします。
第21節 最終節 共栄大学戦
この試合に向けて、
1週間チームが勝つために準備をした。
脳震盪も治って、動けるようになっていたので
通常通りの練習メニューに合流した。
歩夢が怪我をしていたこともあり。
トップチームのスタメンで練習をしていた。
調子も全然悪くなかった。
なんなら休んでいたこともあって、体は、軽くて絶好調だった。
木曜日の夜
登録メンバーと金曜日の練習メンバーがいつも通り送られてくる。
いつも通りいくと、その日の練習のスタメンがそのまま試合のスタメンという流れが定席だった。
なので、最終節は、スタメンだと思っていたり
國學院大学との得失点の差が4離れたいたので、
國學院が1−0で勝った場合、農大は、6−0で勝たなければいけないという。
だいぶハードルの高い試合だった。
攻撃力がかなり必要とされる。
そこで誰がメンバーに入るのか楽しみにしていた。
「ピコン」
メンバーが送られてきた。
そこには、湯川竜成の名前がなかった。
出た。このパターン。
急に落とされることは、長い長いサッカー人生をしてきて何度もあった。
なぜかわからないが、すぐに受け入れられた。
まーやることは変わらない。
明日最後の練習になる思うから盛り上げて、最後残せるものを残そう。
できることを100%出そう。
そう意気込んで練習へ向かった。
みんなからは、
登録ミスでしょ。
と言われた。
その発想はなかった。
まさか監督が最後にこんな初歩的なミスをするわけないと思っていたからだ。
グラウンドへ出ると
児玉さんから呼び出しがあった。
何をはなされるのかなと
口から出てきた言葉は、
「半分申し訳なさと半分感謝」
???
頭には、???が浮かんだ。
最後の試合に自分を外した理由を言ってくれた。
「今までチームのためにやってきてくれたこともわかっている。
でも、監督としての決め事を守らせてほしい。上の学年と下の学年、能力が一緒だった場合下の学年を使う。
ここは、自分のエゴを出させてほしい」
そう言われた。
何を言われても受け入れる覚悟だった。
「はい。わかりました。自分にできることを最後やります。」
そう言って、最後の練習へ向かった。
最後の練習めちゃくちゃ楽しかった。
最後の試合は、短い時間2本の試合でハットトリックを決めて、最高の締めくくりだった。
そして、迎えた試合当日
全力で応援した。
結果は、1−2負け
國學院は、2−1勝利
勝ち点3差で國學院の優勝が決まり。
農大の準優勝が決まった。
自分たちの目標は、関東2部昇格すること。
目標は達成できた。
最後のサッカー人生任務完了だ。
後輩に最高のお土産を残すことができた。
試合後の締めの話で、4年生1週間の引退延長を告げられた。
目標を失った4年生が多くいた。
自分もその中の1人だった。
残された後輩は、次は、関東1部昇格を目指している。
それに向けた準備が始まる。
その中に自分が入る余地はなかった。
だから、練習には1度も顔を出さなかった。
過去を引きずって欲しくなかったから。
練習に行けない分は、
ハイアルチでカバーした。
カバーできたかは知らないけど。
そうして迎えた。
本当の本当の引退試合。
相手は、帝京大学
4年生+加賀谷のチーム編成
サブには、レオと雅史がいた。
最強の布陣。
でも、4年生は4年生チームになると急激に弱くなるという特徴がある。
全員自我が強すぎるからであろう。
試合が始まった。
開始早々。
加賀谷のミスから失点した。
昔のガキだった4年生だったら、死ぬほど人に矢印を向けていたと思う。
でも今回は、違った。
全員が最後の試合勝つために走り続けていた。
それはCFをやっていてすごく感じた。
自分がプレッシャーをかけに行くと一つの矢印のように全員が連動してくる。
その感覚がたまらなくよかった。
11人の矢印が全部同じ方向を向いて一つの矢印ができる。
この感覚。
4年間で初めて感じた。
1人残らず、チームが勝つためにやっていた。
そのおかげかは知らないが、前半に逆転をして2−1で折り返した。
後半
やっぱりこの男のやらかしで始まった。
新良介のクリアミスが相手に当たって同点。
4年間を振り返っているような気分だった。
また、新良介か。
後半は玲於と交代した。
明治学院大学戦以来かな?
やっぱり玲於だよね
何があっても全員矢印は、勝つ方向に向き続けていた。
結果、後半終了間際
藤井健悟のコーナーキックから
新良介がヘディングで合わせて逆転。
ドラマのような展開だった。
脚本家がどこかにいるんじゃないかと思うようなシーンだった。
神様の粋な計らいに感謝だなと感じた。
結果 3−2の逆転勝ち
本当に本当に最後の試合が終わった。
悔いは一切残っていない。
やりきった。
結果フタを開けてみれば
関東大学サッカーリーグ2024の個人成績
シュート2本 ゴール2得点
100発100中 シュート成功率100%という記録だけ残った。
チームが勝つために結果としてできたことはこのくらいかな。
自分が結果で見せられるチームへの貢献はこのくらいだった。
俺は人生結果以外の見えないものが全てだと思っているから。
全然気にしない。
サッカー人生の幕が閉じた。
最後に残ったメンバーは、
選手17名、マネージャー1名
サッカー人生
最高に楽しかった。
サッカーの神様に感謝
「ありがとう」