4年引退ブログ
『無我・気づき・感謝』
湯川 竜成(瀬戸内高校)
卒業ブログ
東京農業大学農友会サッカー部を日頃から応援、ご支援していただいている皆様ありがとうございました。
三軒茶屋で爆酔い、腕立て伏せ、居酒屋から追放された男 榮村駿太から泥酔パスを頂きました。
今シーズン
農友会サッカー部副主将
「全力 全力 竜成!!」「モリンガ」でお馴染み
株式会社モリンガルウィン
代表取締役の湯川竜成です。
ブログの文章制限のため
全3部 3章構成で最後の卒業ブログも全力で書かさせていただこうと思います。
過去現在未来をみても
最高の文字数なのではないでしょうか。
脅威の37615字
まさかの卒業論文よりも文字数を書いてしまうということになってしまいました。
自分でも驚きです。
3部によってお送りします。
1部 1章前半 サッカーとの出会いから高校卒業まで
2部 1章後半 大学入学から大学卒業まで
3部 2章 3章というような形になりました。
農大のみんなは、2部と3部は、読んで欲しいな!
長すぎるので、飛ばしていただいても大丈夫です!!
後輩は、第2章を呼んでほしいな!
第1章 サッカー人生
第2章 次の時代を築いていく後輩へ
第3章 感謝
拙い文章ですが、
最後までお付き合い下さい。
それではスタート!
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第1章 サッカー人生
サッカーの始まり
小学サッカー時代
姉2人が体操をしていたこともあり、小学校1年生から体操をしていた。
2度も金メダルをもらうくらいの実力だった。
表彰されるのは、嬉しいけど楽しくない。
やらされているだけの習い事だった。
何か違うことをしたい。
そして、
小学校2年生で野球とサッカーどっちをやるか迷っていたとき
小学校のサッカーチームに誘われる。
誘われて不意に始まったサッカー生活。
覚えているのは、ボールを追いかける感覚が楽しい。
その感覚だけ。
必死にボールだけを追い続けていた。
熱中していた。
ボールを追いかけて持ったら突っ込むゴリゴリなドリブラーだった。
ついたあだ名は「猪」
なんだかんだ初めてすぐからチームの中心になっていた。
所属していた深川小学校は、1学年が大体10人前後のチームだった。
初めてサッカーの試合に出たのは、高陽リーグだった。
高陽地区(深川 真亀 落合 落合東 口田 口田東)は、6つの小学校からなる地域のこと。
高陽リーグは、1〜3年生までの高陽jrリーグと4〜6年生までの高陽リーグの二つのリーグで構成されている。
そして、このリーグの運営は、選手だけでサッカーコートの作成を行い、
試合のコーチングや戦略を練り、試合での審判や片付けまでの試合運営を行うことで、
サッカーに大切なことを自ら体験して学ぶというリーグだった。
ここでの経験は今の自分にも大きく関係している。
自分で考えて行動するということができるようになったのは、
この高陽リーグのおかげだと思う。
そして、3年生になり、徐々にサッカーも慣れてきたタイミングで、
チームとしての活動に積極的に参加し始める。
深川小学校の1〜3年生で構成されたエーちゃんズというチームでリーグ戦を戦っていた。
このチームの良さは、「みんなで頑張ること」
試合中に
「1年生、2年生にもっとパスを回そう」と声が飛び交い、
1〜3年生のみんなの力で勝ちたいという思いを持って試合をしていた。
『みんなで力を合わせて頑張ってみんなで勝つこと』
これが楽しかった。
これがサッカー観の「原点」だと思う。
リーグ戦を通して、優秀選手が22人選ばれるという制度があった。
そこで、人生で初めて優秀選手というものに選ばれる。
「嬉しかった」サッカーで表彰される感覚を初めて経験した。
ここで、もっと認められたい。
ここから上に行きたいと思い始める。
そして、リーグ戦の活躍もあり
高陽地区(深川 真亀 落合 落合東 口田 口田東)
6地区の小学校の代表選手が集められてできた高陽FCに誘われる。
ここからサッカー人生が大きく変化し始める。
一個上の学年のカテゴリーの選抜チームに参加して、練習が始まった。
レベルが今まで経験していたものとは、違った。
練習のレベルが全然違う。
選ばれた人たちは、技術も体力も違った。
練習メニューで、リフティングとランメニューがあった。
リフティングは、回数を数えて報告するというものだった。
ランメニューは、グラウンドの周りを走って、タイムに入れなければならないものだった。
ランメニューは、死に物狂いでついていきどうにかなった。
しかし、リフティングができなかった。
できても、5回くらいだった。
周りのみんなは、50回、100回と桁が違った。
でも喰らいつくために、自主練をして、20回まではできるようになった。
少し成長をした。
でも、実力が足りず新チームになるタイミングで、
一緒に上の学年のカテゴリーにいた同学年の誰よりも先に
下の同学年と同じカテゴリーに落とされた。
ここで人生で初めての挫折を経験する。
「悔しかった」
絶対に這い上がってやる。そう決意した。
1番初めに下のカテゴリーに落ちた分
下のカテゴリーのメンバーとは早い段階から仲良くなることができて、
自分のポジションを確立することができていた。
その結果、チームに馴染みやすくチームの中心になることができた。
学年が上がっていくにつれて、責任感と自我が芽生え始める。
5年生になり、高学年になってからサッカー観が変わり始める。
這い上がる、上に行くためにどうしたらいいのかをずっと考えていた。
そのためには、自分が活躍しなくてはいけない。
結果を残さなければいけない。
「勝つ」
自分が結果を出して勝つためにはどうしたらいいのかしか考えていなかった。
少しずつトレセンにも選ばれ始めた。
少しずつ自分の実力が認めれられてきた。
認められるにつれて、少しずつ偉くなっている気もしていた。
そのまま時間が経ち、最高学年である6年生になった。
湯川竜成 「王様時代」 に突入する。
高陽FCの10番は、高陽地区でも1人しかつけれらない。
憧れる番号
これまでの10番は、OBでもある森重真人などのプロサッカー選手になるであろう選手につけられる番号だ。
チームでは、欠かせない存在。
圧倒的エースストライカー
私の1個上の10番は、広島県少年サッカー大会の決勝でハットトリックをするような選手だった。
しかも、勉強もできるいわゆる文武両道のできる完璧な人だった。
そんな偉大な人がつけてきた背番号
「10番」
私は、その背番号を引き継いだ。
この時に大きな勘違いをした。
「俺がこのチームの王様だ。」 そう思った。
プロになれると確信していた。
自分が絶対の世界に突入。
全部俺が決めてやる。
俺にボールを回せ。
全部自分でドリブルをして決めてやる。
こんな振る舞いをしていた結果どうなったか。
怖い人、近づきづらい人になってしまった。
サッカーをしている時は、エースだから仲良くしてくれる。
サッカーをしていない時は、友達ではあるが、どこか怖がられる存在だった。
本当の友達と言えるのかわからない、
それは、一緒に接していて感じた。
いつも遊んでいるメンバーに呼ばれない。
小学校ながらに仲間外れにされている感覚があった。
あの感覚は忘れない。
私と友達を繋ぐものは、サッカーだけだった。
俺からサッカーを取ると友達がいなくなってしまうんじゃないかそんな不安ばかりだった。
そこからもどんどん結果を出さないと友達がいなくなってしまうという不安感でサッカーを続けていた。
サッカー サッカー サッカー
点を決める 点を決める 点を決める
俺にボールを出せ 俺にボールを出せ 俺にボールを出せ
結果ばかりを求めていた。
これが逆効果だった。
チームメンバーがしたミスに対して
「なんでミスするんだよ」「何でできないの?」「できないならやめろ」
暴言を吐いていた。
結果、初めて仲間を泣かせてしまった。
この時に、気づいた。
何のためにサッカーをしていたのか。
原点は何だったのか。
『みんなで力を合わせて頑張ってみんなで勝つこと』
これが楽しくてサッカーをしていたのだ。
こんなサッカーの仕方じゃだめだ。
自己中心的なサッカーは面白くない。
でも、時すでに遅し
全日本少年サッカー大会は、西部地区予選で敗退した。
この時の相手がクラージュ広島
憧れていた竹森康太に負けたのだ。
竹森康太のフリーキック一本で、0−1で敗退。
高陽FCの3年連続の広島県大会決勝進出の記録が途絶えてしまった。
高陽FCとしての大きな大会は、ここで終了した。
小5からトレセンに選ばれ始め、
地区トレセンから県トレセン、そして中国トレセン
ナショナルトレセンに選ばれた。
初めて会うメンバーとサッカーをする楽しさを知った。
まだまだいろんな人がいる。上手い人がたくさんいる。
世界の広さを知った。
自分の居場所を知った。
ここで自分の小ささを知った。
サンフレッチェ広島のJr.ユースのセレクションを高陽FCのみんなで受けに行った。
例年、高陽FCの10番はサンフレJr.ユースに受かっている。
だから、私も同様にみんなからは選考に受かると期待されていた。
そして、選考が始まった。
一次選考を受かったのは僕を含めた3人が受かった。
二次選考は別日に行われた。
選考には、高陽FCの一次先行通過組の3人で行った。
順調にセレクションが進んでいき、
最後の試合の番が来た。
その時、チームには同じフォワードで足が早くて大きい選手がいた。
フォワード被り。
そこでフォワードを譲ってしまった。
そして、2次選考を受かったのは、2人
落ちた。
フォワードを譲った選手は、選考を通過した。
また1人だけの挫折。
人生2度目の挫折。
今度の挫折は、自分の弱さが招いた結果だった。
ここで決意したのは、
サンフレJr.ユースに行けなかった分
高校での進路は、サンフレJr.ユースの人が行くような場所に行けるようになる。
そう決意した。
その後に行われた
高陽リーグ最後の試合
得点王になるには8点以上が必要条件
カトちゃんペVS真サッカーズ
10ー2
結果は、9得点決めて逆転で得点王に!
人生初の得点王
「嬉しかった」
小学校の頃は、多くの場面で優秀選手などで表彰される機会が多かった。
トロフィーもメダルも多くある。
そこで、私は一度、表彰式で大きな過ちを犯したことがある。
多くの表彰をされて天狗になっていた時だった。
表彰されて、賞状をもらうとき片手で受け取ってしまったのだ。
のちに、保護者に怒られた記憶が鮮明に残っている。
勘違いをしていたのか、目が覚めた。
そこからは、表彰された時は、感謝の意を込めてしっかりと両手で受け取るようになった。
とても反省をしている。
小学サッカー時代に経験したこと
・挫折
・王様
・敗北
・失敗
以上で小学サッカー時代のエピソードは終了。
中学サッカー時代
中学サッカーは、小学校の高陽FCのJr.ユースチームに入団をした。
高陽FCのJr.は、広島県でも有数な強豪チームだけど、
Jr.ユースになると、小学校の時に上手かった選手が引き抜かれるという理由から少し弱くなってしまう。
それでも、そのまま系列のチームに行った理由は、
小学校の時の仲間ともう一度上を目指したいという思いからだった。
地元が好き。
高陽が好き。
仲間が好き。
仲間が大好きになったのは、この頃くらいな気がする。
大好きな仲間ともう一度上を目指すことができる。
そこにすごく価値を感じていた。
この頃から大好きな仲間と上を目指すということが好きになったと思う。
中学校に入ってからの大失敗は、二つある。
一つ目は、遅刻連鎖による坊主の連続
ジュニアユースに入って、初っ端の試合にバスの出発時間を間違えて遅刻した。
焦った。
遅れて到着をして、コーチに言われた言葉は、
「頭丸めてこい」
ショックだった。思春期真っ只中の坊主。
学校にいくのが憂鬱だった。
それから、連続で遅刻をして坊主を繰り返し、
高陽FCには、連続で坊主になると、どんどん短くなる制度があったため、ついに12mm→6mm→五厘刈りまでなってしまった。
ありえないような失敗を繰り返した。
二つ目は、
ある試合で、終始、審判の判定に苛立ちを覚えながら、試合に負けて公式戦が終わり、
最後の挨拶の整列する際に、審判に向かって、
「しね、クソジジい」
と暴言を吐いた。
今思うとありえない。
考えられない。
この後、コーチにコテンパンに怒られた。
広島県サッカー協会にもトレセンの時に、怒られた。
トレセンに選ばれるような代表の選手がそんな態度を取るな、反省しろと言われ。
本当にその通りだ。
そこからは、審判に暴言を言うことは無くなった。
審判のせいで負けたとかみたいな言い訳はしなくなった。
審判に矢印を向けても成長しない。
審判を変えることはできないけど、自分は変えることができる。
以上の二つが中学時代の大失敗。
サッカーに関しては、
中学校では、
2年生からトップチームのレギュラーとして試合に出ていた。
この頃から、一個上でサッカーをするときは、
自分を生かすプレーだけではなく、他人を生かすプレーも好きになっていた。
ゴールよりも、アシストに快感を覚え始めた頃。
順調にサッカー人生を謳歌していた。
中学校時代は、馬鹿みたいに足を攣っていた。
時には、前半で足を攣ることもあった。
そのくらい走っていた。
チームのために走る。
それは、昔から変わっていない。
でも、馬鹿だから体力の配分は考えられない。
そんなプレースタイルだった。
中学では、上のカテゴリーとの紅白戦がよく行われていた。
こういう紅白戦が1番燃える。
自分の実力を証明するチャンス。
結果をこだわっていた。
中学校くらいから、試合に出たり出なかったり、
競争が激しくなってきた。
ライバルも多くなり、
考えないと試合に出れない環境になっていた。
ライバルに勝つためには、
どうしたらいいのか。
自分にしかないものはなんなのか。
自己分析をし始めていた。
この頃の自己分析は、
推進力
突破力
打開力
くらいだった。
中学校の成績は、中国大会に2年連続出場。
最高学年の中国大会は、
中国大会にいったご褒美合宿で、鎖骨骨折をしてしまい、
中国大会に出ることができずに中学校のサッカー生活が終了した。
中学校の卒団の時に監督に言われた言葉で印象に残っている言葉がある。
「チームがあっての個人がある」
「自分を表現してサッカーをしたいならチームのことをやってから表現しろ」
この言葉は忘れない。
チームがいるから自分がいて、
自分のプレーを表現したいなら、チームでの決まりごとを守った上でする。
そういった考え方は、ここから芽生え始めた。
中学時代から将来の夢で
プロサッカー選手というのが恥ずかしくなってきていた。
中学サッカー時代に経験したこと
・失敗
・矢印の方向
・表現の仕方
・自己分析
高校サッカー時代
高校サッカーは、広島県瀬戸内高等学校へ進学した。
進学を決めた理由は、
『推薦が来たから』
『学費が免除になるから』
『広島でも強豪校だったから』
そんな理由だけだった。
推薦が来るまでは、皆実高校一本で考えていた。
自然に身を任せた。
ここでの選択が大きく人生を分け始める。
[人生で1番きつかった3年間がスタート]
瀬戸内高校へ入学し、サッカーのレベルが何段階も上がった。
同期のメンバーを見ると、
サンフレJr.ユース 高川学園 シーガル広島
中国地方では、強豪校と呼ばれるようなチームが多くいた。
先輩を見ても、全国各地から集められた選手ばかりで圧倒された。
ここでサッカーをするのか、、、
不安とワクワクだった。
その中の1人に小学校の頃に憧れていた天才サッカー少年「竹森康太」がいた。
小学校の時、全国大会の予選で負けた相手が目の前にいたのだ。
憧れたいた人と一緒にサッカーができるワクワク感は忘れられない。
1年生の時のエピソードとして一つ紹介したい面白いエピソードがある。
瀬戸内の同期の人なら覚えているであろう。
前迫先生か濱本先生が
練習でよかった人は、
全員広島県工業大学高等学校に連れて行くとコーチが言った時の話だ。
この時に
湯川竜成が放った言葉
「全員で工大高へ行こうぜ。」
この言葉に湯川竜成の価値観の全てが詰まっている気がする。
結局は、全員いくことはできなかったけど、多くの人が行くことができた。
そんな話もありつつ、
なんと1年生の時の3年生が瀬戸内高校で初めて高校サッカー選手権の全国大会に広島県の代表として出場した。
順調にトーナメントを勝ち進んだ。
結果は、ベスト4
準決勝 埼玉スタジアムで流通経済大学附属柏高等学校に大敗した。
応援席から応援していた。
衝撃だった。
レベルが違った。
また世界の広さを知った。
上には上がいる。
どこまでいってもその壁にぶち当たった。
この舞台に立ちたい。
その一心で練習に取り組んだ。
チームの中でも技術のなかった自分は、誰よりも練習した。
瀬戸内高校は、広島県でも1番走る高校だった。
練習の流れは、
火曜日 ランメニュー
・高天原という墓の周りをタイムを決められて走る インターバル走
・高天原の山を登って下ってを繰り返す アップダウン
両方ともタイムが決められていて入らないと上に上がることができない。
地国のメニューだった。
水曜日 練習
木曜日 上げ
金曜日 調整
土日 試合 負けたら走り
月曜日 オフ
このオフがオフじゃないのが瀬戸内高校の闇
火曜に走りがあるため、
月曜日をちゃんとオフする人はほぼいない。
いつもオフの日のグラウンドは次の日の高天原での走りに備えて準備している人ばかりだった。
瀬戸内高校で試合に出る必須条件が走れること。
高校の恩師でもある田中先生が言っていたサッカーに必要な3原則
「走る 声出す 体張る」
これは技術がなくても下手くそでもできること
これを田中先生は大切にしていた。
ここで、
今の湯川竜成のサッカースタイルがほぼ完成する。
サッカーが上手い選手はごまんといる。
その中で勝ち抜いていくためには、自分にしかできないことを探さないといけない。
自分が特化している武器を磨く。
そこで見つけた自分が特化している武器
「目的のための努力なら真面目に取り組めること」
「突破力 推進力 巻き込む力」
「考える力」
を見つけた。
高校サッカーを振り返るうえで
大事なターニングポイントは3つある。
高校サッカーの1つ目のターニングポイントは、
高校2年生になって、急遽、トップチームに呼ばれて時之栖で行われた遠征にいった時だ。
初めてのトップチームのメンバーとの試合。
緊張よりもワクワクが大きかった。
この遠征で進化した。
対戦相手に流通経済大学附属柏高等学校がいた。
一年前先輩が全然通用しなかった相手だった。
結果は、1−0で勝利した。
なんと、自分が得点を決めて勝利した。
ここで、自分も日本で通用するという自信を得た。
進化した。
ここで与えられたチャンスを掴んだ。
そこからは、トップチームに定着して少しずつ試合に出始めた。
順調だった。
シーズン初め
開幕戦で途中出場から点を決めたり、
知っている人は知っているであろう
作陽戦のゴラッソを決めたり、絶好調だった。
そして、
高2のインターハイ広島県予選
メンバーに入っていたので、試合に出る気満々だった。
インターハイ予選の前の週の試合。
米子北と試合をした時の話だ。
試合中にラインギリギリのボールを追いかけて行った結果
グラウンドの脇にある水道に突っ込んでしまい、肉離れを起こしてインターハイ出場できず。
高2のインターハイがあっけなく終了した。
そのまま夏休みに入り、遠征、合宿、練習試合の繰り返しだった。
そこで高校サッカー第2のターニングポイントが訪れた。
今でも忘れることのない山陽戦
試合中に相手ゴールキーパーと接触して半月板損傷をした。
そこで医者から放たれた
「手術をすれば全治半年間。
自然治癒だと、3ヶ月程度で復帰できるが完璧に治るとは限らない。再発する可能性が高い。」
という言葉。
人生で初めての長期離脱だった。
順調だった時に起きたこのアクシデント。
絶望。
ショックすぎた。
言葉が出なかった。
手術をすれば、選手権に間に合わない。
自然治癒でも選手権ギリギリ。
自分は自然治癒に懸けた。
怪我をして何も出来なくなった。
全然治らない膝。
近づいてくる選手権。
焦る自分。
ぐるぐるにテーピングを巻かれた膝。
痛みに耐えながら練習をする毎日。
結果、30人には入れたが、ベンチには入れず、
決勝で皆実に負けて2年生の選手権が終了。
その時の自分の目標であった全国大会には行けていない。
残されたのはあと1年。
焦りしか無かった。
そんな中行われた広島新人戦
膝の怪我の影響で新人戦のメンバー外
応援席から応援の形だった。
結果は、広島県で優勝した。
人生で初めて広島県で1位になった経験だ。
チームとしては、幸先のいいスタートだった。
でも、チームに自分のいない状態で優勝した
心の底からは喜べなかった。
悔しかった。
みんなと試合に出て優勝したかった。
その喜びの中に自分もいたかった。
そんな2年生の終わりごろ訪れたのが
新型コロナウイルスだった。。
生活ががらりと変わった。
緊急事態宣言が出て、
家から出れなくなり、仲間とも会えなくなった。
サッカーを始めてからずっとサッカー漬けの生活だった毎日から急にサッカーから切り離された生活が始まった。
丁度膝も怪我していたのでちょうど良かった。
暇すぎて、釣りにもハマった。
サッカー以外でも
この世界には楽しいことあるんだなーって知った。
でも、、サッカーがしたくなった。
この頃、リフティングが流行っていた。
嫌いだったけど、流行っていたから、練習した
リフティングを撮影して仲間に送りあったりもした。
楽しかった。
でも、俺にはリフティングは向いていなかった。
飽きた。
次に何しようかと考えた。
1人で、家でできて、サッカーに繋がること何かなーって考えた時。
あっ筋トレしよう!
ここから筋トレ生活が始まった。
家に懸垂できる設備を整えて、重りも購入した。
楽しかった。
段々と大きくなっていく体
やったことが成果として出てくる感覚。
筋トレにどハマりした。
今の体の基盤を作ったのはこの期間が大きい。
なんだかんだしてると、
高校3年生になり、
遂に、高校サッカー最後の年になった。
コロナウイルスの中で少しずつサッカーの活動が再開した。
サッカー部の活動は再開したが
全力でサッカーに集中出来ない。
コロナウイルスの影響で
中国プリンスリーグは1周だけになった。
インターハイは中止になった。
勝手に決まったインターハイの終了。
俺のインターハイ人生は、
米子北の蛇口で終了。
これもこれで面白い終わり方か。
今となれば笑い話だ。
少しずつ高校サッカーに終わりが近づいてくる。
夏が終わり
遂に、最後の全国への道である
高校サッカー選手権の時期になった。
最後3つ目のターニングポイントが訪れた
選手権の時期の前、
急に何人かトップチームからBチームに落とされた、、、
その中には、
また湯川竜成の文字があった。
なんでこんな時期に落とされる?
瀬戸内高校にはこういった謎にカテゴリーが落ちる。
理不尽なことが多くあった。
【⠀ハマる⠀】
瀬戸内の頃はこの言葉を多用していた。
すぐに些細な隙を見せるとハマってカテゴリーを落とされる。
このハマるに関しては上手い下手関係なくハマる可能性があるのが瀬戸内の面白いところだった。
こういう理不尽対応には3年間やっていて慣れっこになっていた。
でも、焦った。
さすがに焦る。
選手権前にBチームに落とされる。
夢だった選手権の舞台に立てないかもしれない。
そんな不安で押しつぶされそうだった。
不安を抱えたままBチームへ行った。
一緒に落ちた仲間とは、
もう良くね?みたいな話をしていた記憶がある。
半分諦めかけていた自分もいた。
この時、Bチームを見ていたのが、
東京農業大学に行くきっかけとなった。
国士舘大学元主将
児玉監督の同期で蛭子コーチの後輩でもある
石川先生だ。
石川先生から学んだことは、
どんな時でもブレない精神力
根性、気合い、努力
己と向き合って己と戦うこと
基準を落とさないことだ。
どんな環境でもやることを変えない。
自分に出来ることを100%する。
手を抜かない。
腐らない。
上を見続ける。
このタイミングで石川先生のもとでサッカーをプレーできたのも何かの縁だと思う。
ここでのBチームの期間
石川先生の下でトレーニング出来て良かった!
1番メンタルが不安定だった時期に
どんな時でもやるしかない男に出会った。
めちゃくちゃ熱い男。
ここでの期間は最高だった。
一瞬で吹っ切れた。
悩んでいる暇はない。
やるしかない。
諦める暇なんかない。
諦めずに自分に出来るパフォーマンスを
どんな状況でも100%出し続けた。
そのおかげで、
選手権のメンバーに食い込むことができた。
しかし、、
最後の選手権メンバーは最悪な状況だった。
主力の選手(キャプテン・副キャプテン)が怪我で不在。
それでも、1回戦は、難なく突破。
2回戦 対戦相手は皆実高校
毎年決勝で見るような対戦カードだった。
いつも左サイドウィングをしていた自分は、
フォワードのキャプテンがいないため、フォワードで出場。
後半、足をつって交代。
何も出来なかった。
結果は、0-1で負けた。
この得点を決めたのは、
小学校の時のサンフレJrユースのセレクションでFWを譲った男。
岡崎だった。
また同じやつに目の前のチャンスを持っていかれた。
こんなことがあるのか。
また同じやつに人生を変えられるのか。
悔しかった。
涙が止まらなかった。
呆気なく高校サッカーの引退が決まった。
瀬戸内高校には、
馬鹿で熱量が半端ない良い人が多く集まる。
田中先生、石川先生は、
とにかく熱量が半端ない。
そんな熱量の半端ない環境でサッカーができて
今思うと幸せだった。
熱い高校だった。
瀬戸内高校を選んで良かったなと思うのは、
・高校の生活が充実している
・色んな人がいて面白い
・一般生と部活生の仲が良いこと
・学校が部活動に大きく力を入れている……
良かったところをあげると色々あるけど
何よりも
人として成長できる環境だった。
これも大きいと思う。
文武両道
サッカーだけをやればいいわけじゃない。
サッカー以外の生活を真面目にすることの大切さを叩き込まれたのもこの頃からな気がする。
礼儀、挨拶、目上の人との接し方、
当たり前のことを当たり前にする。
サッカー以外の面でも
瀬戸内高校に入ったことで大きく成長した。
こういったことは瀬戸内高校で学んだ。
そのおかげで私事ですが、
高校2年生の時
学年の中での成績1位を守り抜いた。
この成績のおかげで
推薦でいける大学は選び放題だった。
語り尽くせないくらいの
色んな物語が瀬戸内であった。
瀬戸内高校で良かったなって思う。
何度生まれ変わっても瀬戸内高校に入学したいと思える。
そんくらい
この3年間で瀬戸内高校が大好きになった。
瀬戸ポン最高!
高校時代に経験したこと
・理不尽
・進化
・自主練
・変化
・成長