4年引退ブログ
『 変化 』
爲岡 進悟 ( 瀬戸内高校 )
はじめに、日頃より東京農業大学サッカー部を応援、ご支援してくださっている皆様ありがとうございます。
この場をお借りして心より御礼申し上げます。
常に爆弾を抱えながらサッカーしていて、下半身包帯人間。
名前の漢字は丈夫の「丈」に武士の「士」。
仲間に厳しく、音楽の選曲にも厳しいで有名なGK最年長プレーヤーこと、谷口丈士から紹介預かりました、日本語がままならないのに、最近英会話をやってみた爲岡進悟です。
荒木の伏線を回収したところで、早速本題に入りましょう!
「変化」
経歴:川内体協FC→川内FCジュニアユース→広島県瀬戸内→東京農業大学
サッカーを始めたきっかけは友達の誘いと父の影響で小3から。
体験の初日から身長と身体能力が優れていたこともあり、キーパーをやらされた。
初めてシュートを受けるのは、とても怖かったけど、なんか体が勝手に反応し、シュートを止めまくっていた。
しかし、ゴールを守るキーパーなんてやりたくなくて、ゴールを決めるストライカーになりたかった。
中村監督から何を言われようともキーパーをずっと断っていた。
小4からは、川内体協FCと緑井サッカー教室でメンバー選考があり、選ばれた選手は、佐東南FCという選抜チームで主に活動するようになる。
僕は選ばれるような選手ではなかった。
ある日、お母さんに「あの時にキーパーをしておけば佐東南FC(選抜メンバー)に選ばれたのに」と言われた。
頭に、ある出来事が思い浮かんだ。
選抜メンバーが決まる前にFWで出場した練習試合での出来事だ。チームが失点を重ね、監督からキーパーに変わるよう指示された。
しかし、キーパーをやりたくなかったことや点を取りたいという気持ちで、監督の指示を断り、FWをやり続け、結果も残せずチームは大敗した。
とても自己中で扱いづらい少年だっただろう。
頭にその出来事が思い浮かんだ後、お母さんに「次、キーパーをやるか聞かれた時は、キーパーをやると答えんさい」と言われた。
自分もそうしようと思った。
数日後、鶴岡コーチから「キーパーをやるか?」と聞かれた。僕は「はい」と答えた。ここから想像もつかないGK人生が始まった。
「あの時キーパーをしておけば、佐東南(選抜メンバー)に選ばれたのに」の伏線を回収するかのようにキーパーを始めると、すぐ佐東南FCに選抜された。
全日(全日本U-12サッカー選手権大会)では、広島県3位に入賞した。
準決勝(相手は、りゅうた、はやと、はせの出身チーム!)では、スタメンキーパー負傷で前半途中から出場した。
溝上監督から「ため、行くぞ」と言われた時、震えが止まらなかったのを覚えている。
0-1の状態で入り、そのまま試合を終えた。
ロッカールームで、初めて仲間と涙を流したのは、僕の大切な思い出だ。
3位決定戦は、スタメンキーパーが復活し、出番はなかったが、素晴らしい仲間の活躍で広島県3位に入賞できた。
このブログ見てるかわからないけど、みんな改めてありがとう。
指導者に、自分にはキーパーだと気づかせてもらったこと、沢山指導して頂いたこと、感謝しています。
・弱者から強者の気持ち(プライド)
中学は、川内体協FCでお世話になった、森田コーチが中学生のチームを作ってくれたことや、小6からチームでお世話になっていた事もあり、設立2年目の川内FCジュニアユースに入部した。
チームの練習場は、小学校で土、ゴールなんてなく、移動フェンスをゴールにして、一生懸命いつも同じメニューを世界のキーパーで誰よりもこだわって練習した。
森田監督は、僕の伸び代をみて、下手くそながら小6からジュニアユースの試合に連れて行ってくれて試合経験を沢山積ませてくれた。
よく自分で相手にパスを出して、スーパーセーブをしていたから、自作自演と言われていましたね。
佐東南FCで活躍した先輩方や仲間が多く入団したことで、設立2年目から昇格し、中3の時には、県2部リーグで戦うことができ、見事優勝した。
監督の指導もあり、優勝もあってか、小学生時代から注目されていた選手でもなかったが、中3冬から地区トレ、県トレと招集がかかり広島県代表としてJクラブが参加する大会に出場させてもらうことができた。
そこで初めて今の日本代表GKザイオンをこの目で見た。中学から規格外のデカさをしていて、上には上がいるんだと実感した。
それと共に「俺は全国のトップクラスの選手と戦うようになったんだ」と強者の気持ち(プライド)を持つようになった。
・チャンスに気付けなかった高校時代
広島で1、2番を常に争う瀬戸内高校にスポーツ推薦で入部。
県トレで招集されたメンバーが多くいて、一人一人プライドの高い選手が揃っていた。
自分もGKを始めてから良い思いをしてきたから、変にプライドを持っていた。
今思えばそれは、必要のないものだった。
入学と同時に関東1部の東海大でスタメンキーパー(瀬戸内OB)だった選手が新卒で先生としてやってきた。
濱本先生は、僕の所属するCチームのコーチを務めた。
よく練習後、自分だけ呼ばれて「変われよ」と何度も怒られ怒鳴られた。
当時高校生の自分は「何言ってんだ。口出ししてくんな」とトゲトゲしていて自分が納得するアドバイスや意見しか取り入れてなかった。
まだまだ未熟な選手なのに人の意見が聞けないのは致命的だ。
1年時にチームは、選手権広島県予選決勝を初優勝した。僕は、スタンドでチームを応援していた。
全国ではベスト4。ここでサッカーする。この舞台に立つ。そう誓った。
2年時はトップサブの選手として1年間過ごした。素晴らしい先輩キーパーの元で切磋琢磨できた。努力も実ったのか、国体に招集され準優勝することができた。
しかし、僕は国体でプロサッカー選手になる夢を諦めた出来事があった。
3回戦富山国体6-0で勝利した試合での事だった。
残り時間も少なく、大量得点でリードした展開だった。
必死にアップをした。今まで見せた事ないくらいのキレとスピードを演出しては、監督と目が合う。まだ監督はカードを切らない。
ひたすら演出を繰り返したが試合は終了。
当時国体の監督がサンフレユースの監督をしていたこともあり、僕はJクラブに選ばれない人間なんだと思った。
それでも、3年生になり正ゴールキーパーで新人戦優勝。
インハイに向けて頑張ろうというところでコロナウイルスはやってきた。
隔離生活。インハイはなくなり、選手権もなくなるだろうと囁かれた。
僕は完全にやる気をなくし、少し走ったり、ボール蹴ったりで選手権の舞台に立つような生活はしてなかった。腐っていた。
時間は過ぎ去り、チームが再始動。選手権が開催されることも決まった。
腐っていた僕はチーム始動と共に8連続ミスをした。8連続ミスをしてサポートしている間に選手権のメンバーが決まった。
僕はもちろん外された。
ミスのことで監督と話した時には、反抗までして言い合いをするくらいにまで人間としても腐っていた。
「変化」するチャンスを逃していた。自分の代の選手権は広島ベスト8で過去最悪の結果を残した。
プロサッカー選手になることを諦めた自分はサッカーをする意味もなく、何よりもサッカーが楽しくなくて、監督の田中先生と進路の話をした時、卒業後サッカーをやめることを伝えた。
今思えばうまくいってなかっただけでやめようとしていた。
監督は低身長ながらも日体大でキーパーをしていたこともあり、僕の持つ体や身体能力を褒めてくれては、何回も止めてくれた。
しかし、僕は、監督が諦めるまで「やめる」の一点張りで、やめる理由ばかりを探し、考え直すことをしなかった。
監督も諦め、やめることが決まった。
サッカーやめれた最高!と思っていたら、コーチの石川先生から「東京農業大学から話あるけどどーする?」と言われた。
内心、「やめるって言ってたし、決まってたじゃん」と思ったが、一人暮らし、バイトOK、都心まで近く遊びに行きやすい、午後に練習はない。サッカー以外のことに矢印が向いていた僕からしたらサッカーがあること以外好条件だった。
そして、良く、良く、考えた。
大学4年間。プロにいける可能性がある。「もう一度プロを目指して頑張る」そう考え、上京前に家族のみんなにも、そうメッセージを残し、スポーツ推薦で農大に進学した。
田中先生、末成先生、前迫先生、石川先生の配慮があったおかけで、今の自分がいます。感謝しています。
・変化した大学4年間
入学当初は関東3部はなく、農大は関東2部の1つ下のリーグ、東京都1部リーグに所属していた。
当時の4年生は、過去注目を集めたタレント揃い。個人能力はもちろん。
人間性としても素晴らしいものを兼ね備えた代だった。
自分の中で1年生で関東2部に昇格するから、関東2部で出場しスカウトに注目されて、プロに行くというプランを勝手に立てていた。
現実はそう簡単ではなかった。ギリギリ昇格に手が届かなかった。
正直この代で昇格できないなら、俺らの代でも都リーグのままだと思った。
ネガティブなことを考えるうちに、またプロになるという夢からは離れていった。
夢を持ってない自分は高校の頃のように腐っていった。
2年生になり、矢印がサッカーに向かなくなっていた。
朝練は2回くらい遅刻し、昼練も熟睡で無断欠席したこともあった。
せな!お前が昼練遅刻しなかったら、農大で唯一昼練を欠席した男ってかけたのにな笑
ただ練習をこなすだけになっていたし、わざと授業と練習を重ねて練習時間を短くしていた。
それでも、都リーグのベンチに多く入れてもらい、一度だが出場することもできた。
出場した試合でのことだ。
試合が終わりいつも通り応援団に挨拶に行った。
みんながメガホン叩きながら声かけてくれる中、そうたろうとじょーじが横に並び、むすっとした顔でこっちを見ていた。
2人から、なんとも言えない紫色のオーラを感じた。それを見て俺は応援される選手じゃないと感じた。
3年に上がるタイミングで関東3部ができ、なんとか来シーズンは、関東3部でプレーできることが決まった。
シーズン終了時の序列は、ファーストキーパーは4年。セカンドキーパーは自分でシーズンを終えたことで、「来シーズン絶対にチームを昇格させる」と出場することは当たり前のように考えていた。
そして、シーズンオフを満喫していたある日、友達との話からサッカー以外の夢に傾き始めた…
シーズンが始まり、リーグ戦に向けこれからと言う時には、もう僕はサッカーにやる気など出ない状態だった。
チームで決められた走りもサボって走りきらなかったりした。
3年生で出場するはずだった関東リーグも始まった時には、僕は静かに1番下のカテゴリーで1番下のキーパーとして扱われた。
週5で通っていた筋トレルームにも顔を出さない。
サッカー部が多くいるバイトにもこない。
寝不足と空腹で限界の日々だった。
でも練習はちゃんとやった。
どんなにしんどくても生きてはいた。けど、サッカー人生は死ぬ寸前だった。
仕事を休んで東京に来た母さんと、渋谷で最後にバイバイする時、お母さんから「しんちゃん」と目を見て呼ばれた。
この後の言葉が自分の人生を大きく左右する。そう感じた。「ドイツに行きなさい。ドイツでサッカーしなさい」そう言われた。サッカーを続けてほしいお母さんの願いだった。自分ができる恩返しは、サッカーしかないそう感じた。
そこから自分を見つめ直し、プライドを捨て「海外に行ってでもサッカーで飯を食う」という目標を立て、真っ直ぐ進み始めた。
残りの3年生の生活はお金をためる為、バイトをしまくり、週11働いたこともあった。それくらい本気だったし、もっと苦しい思いを知っているからキツくてもやれた。
みんながやらないきついことも率先するようになった。
目標を持った自分は、言葉や行動が変わり、周りからも全員ではないだろうが見直してもらえるようになった。
4年になり、チャンスが来た。関東リーグ初戦からスタートで起用してもらった。仲間、カメラマンさん、友達、何よりも親にも迷惑かけたことを恩返しできるチャンスだった。
試合経験が少なくサッカー下手くそだけど、ベンチにいることが多くてキーパー練習は、誰よりもこだわって時間をかけてやっている自信があったから数々のピンチも守ることができた。
途中自分のコンディションが崩れてしまい、交代という形にはなってしまったけど、それは次のステージの課題で伸び代である。
同期のメンバー、本当に本当にありがとう。感謝しています。
マネージャー、全てのスタッフ、サポートありがとうございました。
・最後に
小学生から今まで、沢山の人に迷惑をかけましたが、沢山の人のサポートでこうしてサッカーを農大という素晴らしいチームで続けられ、素晴らしい仲間と出会い、ここまで「変化」することができたと感じています。
きっと多くの人は、「変われ」とか「自分に矢印向けろ」とか、何かしら鼻につくような言葉を言われてきてると思います。
そういう時ほど自分自身「変化」が必要かもしれません。
・児玉さんへ
4年間お世話になりました。
スポーツ推薦でスカウトしていただきありがとうございました。最後まで力不足で申し訳ございませんでした。もっと成長します。
大学3年で道を外した時は、サッカースクールのバイトをできるように手配してくださり、少しでもお金に困らないよう考えてくださいました。
コーチという仕事をさせてもらい、選手として視野も広がり、やりがいを感じることができました。本当にありがとうございました。
「誰かのためにサッカーしてみろ」という言葉を聞いた時は、すでにその状態で、児玉さんのためにも戦ってました。
関東2部昇格できて安心しています。
来年は、選手として一緒に戦うことはできませんが、OBとして全力で応援します。
・蛭子さんへ
3年間お世話になりました。
蛭子さんは、ドイツでプレーしていた事もあり、農大の選手を日本から、ドイツに送り込んでいて、日本以外でもプロになるチャンスがあると、サッカーを続ける上での視野が広がりました。引退試合で流した涙を見て、指導者っていいなって思いました。
今後、何かしらお世話になることがあれば、よろしくお願いいたします。
・げんさんへ
1年間お世話になりました。
初めて会った時に、この人と一緒にいたら成長できると感じ、サッカーノートを自ら書き始めました。
げんさんの発言や、考え方はそこに記してあるから、それを自分がキーパーコーチをするようになったり、大学で積み重ねたことを忘れそうになったら参考にします。
フィジカルレベルやコーチング、キーパーの本質を主に叩き込んでもらったげんさんとの1年でした。
自分の中でとても成長を実感しています。中でも、元台湾軍隊のげんさんだからこそ作れるフィジカルメニューは、とんでもなくきつくて、真夏など関係なくメディシンをぶん投げたりやチューブを体に巻き付けながらトレーニングしたりと毎回吐き気、めまいがして死ぬか生きるかの狭間に連れてってくれました。そのおかげで、今までサボってきたものを突き詰めることができ、関東デビューからパワーを発揮することができました。ありがとうございました。
絶対関東で1番きついことをしていたのは、僕たち農大GKですね。
僕もげんさんも今後どういった流れになるかは、わかりませんが、ここでできたご縁は一生ものだと感じています。
何かの形でお世話になることがあれば、その時は、またよろしくお願いいたします。
・かわしくんへ
シーズンオフに入ると必ずと言っていいほど、練習に顔を出してくださり、プロで学んだことを熱心に教えていただきました。プロに入り、成長したかわしくんを見て、よりプロへの憧れを持ち、教わったことを素直に練習したことで、キーパースキルも上達しました。
また機会あれば、キーパー練習したいです。焼肉行けなかったので、焼肉も行きたいです。よろしくお願いします。
・まこくんへ
進路に迷う僕を、電話できる時間を作って向き合ってくださり、ありがとうございました。
まだ進路は、確定していませんが、サッカーを続ける以上何かしら関わる機会があると思うので、その時はよろしくお願いします。
・こうすけくん、たくむくん、かんたろうくんへ
会うたびに優しく大人になっていくたくむくん。会うたびにバルクアップしていくかんたろうくん。
会うたびに襟足が伸びてイケメンになっていくこうすけくん。忙しい中、試合に足を運び応援してくださりありがとうございました。
先輩方が引退して練習で見なくなっても、週末に基本誰かしらいて、とても嬉しかったです。大学時代も卒業してからもお世話になりました。ありがとうございました。
・りゅうとくん
ブラ長りゅうとくん。引退してからもご飯に連れていってくださりありがとうございました。りゅうとくんからもらった恩を後輩たちに繋げていってます。また温泉でも行きましょう。
・ライバルそうたろうへ
スポーツ推薦で入って敵なしかと思ったら、ユースから来たやついてプラン崩れたよ。最初は良いライバル関係を気付けてなかったね。
お互いがお互いを尊重できてなかったと思う。
結局俺の行動と性格のせいだったかもしれないけど、あのきっかけからいい関係を作れたと思う。
だから関東に出て終わった後、挨拶をしに行ったらむすっとした顔で紫のオーラは無くなってて応援される選手に少しはなれたと思ったし、逆の立場になった時も本気でそうたろうを応援できた。
4年間ライバルそうたろうがいてくれて、サッカーも人間性も成長できたよ。本当にありがとう。
他の同期は学年会の時にあつく語りますね!
・瀬戸内(はせ、りゅうた、はやと、りゅう)の後輩達へ
お前らくらいしか俺にタメ口使わないけど、みんな可愛い可愛い後輩だよ。4年になったら最上級生としての責任感が出てくると思うけど、はせ、りゅうたお前らなら大丈夫。
個人的には最後の最後でりゅうたが関東でたりすると思う。
だからりゅうた頑張れよ。はせは今年よりも来年いい結果だしてチームを勝たせてくれると信じてるよ。はやとは、俺がやらかして下のカテゴリーに落ちた時よく戸坂のグランドで一緒にサッカーしてたね。
関東リーグ一緒に出れて嬉しかったよ。
りゅう、逆境にスマイル!お前らしく貫くのかいつか変化するのか、四年になったりゅうに早く会いたいよ。いいもん持ってるから、挫けず頑張れ!
・GK(やま、しょーご、こうき、らうる、れん)の後輩達へ
やま、練習で不意に笑いを起こしてくれてありがとう。話しても面白いし1番記憶に残っているのは、たしか練習中に失点して、「くそっ」って言った直後に、オナラ出して普通の顔してゴールに戻ってきたことがあった。本当に笑い止まらなかったからやめて笑
しょーご、1番可愛がったし、可愛い後輩だよ。すごく素直で向上心があり、素晴らしいポテンシャルも兼ね備えているよ。素晴らしいものを持っているけど、うまくいかない時や考えすぎてパフォーマンスを落としているところを見てすごくもったいないと思ってる。
良くも悪くも考えを引きずってしまう性格だから、うまく自分をコントロールできるようになると、そこからは早いと思う。
あとは、いつかは自分の形を作っていかないといけないから、いろんな人からアドバイスをもらうと思うけど、最後は自分が信じるものを貫いて欲しい。
しょうごのキャラだと誰にお願いしてもいろんなことを教えてくれると思うよ。
またご飯行こうな。
らうる、目が合ったらすぐにニヤついて、だる絡みをすると、すぐに受け身の体制に入る。俺はお前をドMだと思ってる。
可愛いから許しておくよ。
ビルドアップですごく勉強させてもらっているし、実際話を聞きに行ったこともあるね。
常に顔が上がっていてビルドアップは農大一うまいことを認めるよ。
いいものを持ってるし、今順調にきていると思うけど、満足せずにどんどん成長していって欲しい。
こうきとれんへ、正直2人は怪我関係なくサッカー以前の問題だね。俺が声かけできることはしてきたつもりだから、あとは自分次第だよ。あえて優しい手は差し伸べないよ。
変化した2人に会えることを祈ってます。
・家族へ
お父さん、お母さん、僕は3人兄弟の長男で、下2人にも多くのお金がかかっているのに、何不自由なくサッカーさせてくれてありがとう。
小さい時から問題児で、たくさん迷惑や心配をかけて来たけど、今こうやってサッカーの目標ができて恩返しのために頑張れているのは、全力でサポートしてくれたお父さん、お母さんのおかげです。
上京前に手紙で書いた事を叶えられるか分かりませんが、いつか必ず叶えるので、引き続き応援お願いします。
みんな1月に帰省するから元気に待っててください!
感謝を伝えたい人はたくさんいますが、ブログで書ききれないのでこの辺にしておきます。伝えれない人達には、実際に会った時に伝えようと思います。
長くなりましたが、ここまで僕のブログを読んでくださりありがとうございました。
次回のブログは、1人ディズニーをして、たくさんオシャレな写真を投稿することで有名な、農大のインスタグラマーこと山田怜於。入学当初から怪我に苦しんでいた、彼はどのようなブログを書くのでしょうか。
乞うご期待!!
〈 思い出のショット 〉