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2023

4年引退ブログ〜中本耕輔〜

「恵まれた凡人」中本耕輔




まず初めに日頃から東京農業大学農友会サッカー部をご支援して下さっている皆様、誠にありがとうございます。

この場を借りて、御礼申し上げます。




人生2周目の立川廉選手から紹介にあずかりした



中本耕輔です。




やっぱり廉さんは凄過ぎる。




絶対、人生2周目だよね?




彼に対しては、僕と同期であるがスタッフを呼ぶ時と同様「さん」付けで呼ばせてもらっている。



僕の中の彼に対する最大限の敬意の表れだ。





廉さん、



お世辞にしても農友会サッカー部の心臓は言い過ぎよ。



ほんとのところは農友会サッカー部の小指くらいです。




あと順番ミスってるよね。




廉さんの後は流石にきついって!




1、2、3年生は廉さんのブログを2回読んでから俺のブログを読むように。




最悪、俺のはええから廉さんのしっかり読んで!




これまでサッカー人生を振り返ったことは何度かあるが文字にしたことはないし、文章を書くのが苦手なので拙い文ではありますが、興味がある方は読んでみてください。






〜恵まれた凡人〜





自分には何事においても突出した能力がない。





これまでの人生を振り返っても輝かしい経歴は一切ない。





これはサッカーに限らずだ。





何事も常に平均程度で悪くはないが良いかと言われたらそうでもない。





大学に入学する頃には自分が凡人であることを理解していた。





そのこともあり大学サッカーの4年間において苦しい時なんて1度もなかった。




むしろすごく楽しかった。




特に最後の1年はおもろすぎた。






では自分の人生において苦しい時はいつだったのか?





それはどこか特別だと思ってた自分が凡人であると気づき受け入れた時だ。






何も知らない幼少期、ほとんどの人が右利きである中、自分が左利きであることを知り頑なに右利きに直されるのを拒む。





右手が使いにくいと言うこともあったが左利きが珍しいことにすでに特別感を感じていた。





今だから思う。




「絶対に直せ、お前は何歳になっても綺麗な字が書けないし、ハサミが使いにくいぞ」






小学生の頃にサッカーを始め、何の根拠もなく自分は絶対にプロになれると思っていた。





自分は対して上手くないのに当時所属していたチームメイトのみんなが上手く、全国大会に出場することができたから余計に過信していた。





そしてこの全国大会で知る。





和歌山のちっぽけさを、和歌山じゃ強くても全国では普通であることを。




チームメイトのおかげで全国大会に出場することができた上、なんの活躍もしていないのに和歌山がちっぽけであることに気づけた自分にさらに特別感を感じていた。






恐ろしい程のポジティブ人間だった。





中学生の頃は和歌山の街クラブ(ミラグロッソ海南)に所属していた。





ミラグロッソ海南は田舎の街クラブとは思えないほどの豪華なスタッフ陣がいて、人間教育にとても力を入れていた。また優秀なキーパーコーチもいた。





ポジティブ人間だった自分はこれらを踏まえてやはり自分は特別だと過信していた。






小、中学生の頃を振り返っても何ひとつ成し遂げていない。






ただ毎日、自主練はしていた。





と言うよりしないといけないと思っていた。





楽しむより上手くなりたいが先行してた。





そんな自分の思考回路にさえ特別感を抱いていた。





でも試合で活躍したり上手くいってたわけではない。





県の選抜の練習会にはコーチに気に入られ時おり参加していたが大阪や京都、兵庫の選抜と試合をする時にはしっかり呼ばれない。





しかし恐ろしい程のポジティブ人間はこれらの事実を今後、自分が覚醒する前フリだと思っていた。





「最後は俺がスーパーになるオチね」とか思ったりしていた。




こわっ




中学3年の時、ミラグロッソ海南のスタッフの繋がりで大阪桐蔭高校に入学することが決まった。





当時の自分は「軽くオチが見えてきたな」と思っていた。




こわっ





そして大阪桐蔭高校に入学・入寮し、地獄をみる。






実力が伴っていない自分にはキツい生活だっ

た。





キツさで向上心が徐々に薄れてきていた。





キツイ生活に慣れるにつれて周りとの実力さを感じるようになった。






もちろん下手くそなのに自主練などほぼしていなかった。





日々の生活をこなすことで精一杯だったから。






そしてこの頃、少しづつ違和感を感じ始める。





ちょっとフリが長いぞ...





高校2年の5月悲劇が起きる。





桐蔭の公式戦に初出場する。





ちなみにCチームの公式戦だ。




相手はしっかり弱かった。




立ち上がり早々、ディフェンダーの軽い守備から相手にシュートを打たれた。




するとベンチからコーチの怒鳴り声が聞こえた。




「おい、なにしてんねん!キーパー中本やぞ!」




え、嘘やろ...




保護者の方めっちゃ観に来てますけど...




その後のベンチからコーチングのほとんどが




「おい、中本やぞ!そんな軽い守備してたらすぐ失点するぞ」




という内容のものだった。




頭の中は真っ白になり体が硬直し、何気ないゴロのシュートを足で取りにいき失点。

珍しいキーパーの途中交代をさせられる始末。





この試合、チームは大勝したが誰がどのようなかたちで点を取ったのか一切憶えていない。






試合後、解散したらすぐに親の車に逃げ込むように乗り号泣した。






なんでサッカーを始めてしまったんだ。

こんな思いをするならサッカーを始めるんじゃなかった。






と人生で初めてサッカーを始めたことを後悔した。





号泣する自分を見て両親は




「もう辞めたかったら辞めてもいいよ」



「そんな思いをしてまで続ける必要はない」




両親に高い学費、寮費を払わせた上に恥をかかせ、自分の心配までさせた自分を許せなかった。





その日、寮に戻りご飯も食べずにベットに入った。




サッカーを始めたことを後悔しながらこれまでのサッカー人生を振り返った。





やっと気づいた...





環境や人に恵まれただけで自分には何の力もないことに。





自分は特別じゃなかったのか...






ただこの事実をすぐに受け入れるほど器用な心は持ってなかった。






モヤモヤしながらサッカー続けいたある日、とてつもない腰痛に襲われた。






腰椎分離症






4ヶ月ほどサッカーができなかった。






正直、当時の自分には様々なことを見つめ直すいいタイミングと期間だった。





小説や啓発本を読み、いろんな考えに触れ、通院の帰りは病院の最寄りの駅から電車に乗らず、あえて遠くの駅まで大阪の街を歩き回ったりしていた。






そんな生活を繰り返しているうちにあることを思った。



「平凡で良くないか?」



「環境や人に恵まれていることにもっと感謝しろよ」



「そして何よりお前自身もっと出来ることがあるやろ、もっと頑張れよ」と。




それからだ、何事も一生懸命コツコツ取り組むようになったのは。





今だから思う。この胸糞悪いトラウマのような悲劇が人生において重要だったと。自分の成長を妨げていた根拠のない自信とプライドを当時のコーチが壊してくれたと。





高校3年の時はBチームの試合にかろうじて出場し続けることができた。





気づけば純粋にサッカーを楽しめていた。






しかし大学でサッカーを続けるかはずっと迷っていた。





とりあえず東京の大学に行こう。





なぜその考えに至ったのかは今でもわからないが指定校推薦で農大への進学は決まった。





あとはサッカー、どうしよ...






ここでサッカーを辞めることが薄情でサッカーから逃げてるように感じていた。






一度、練習参加してみたい。






中学生の頃に所属していたミラグロッソ海南の

スタッフの繋がりがあり、農大の練習に参加させてもらうことが出来た。





ここでもう一度、自分の心に火がついた。






何より大学生とのサッカーがすごく楽しかった。




そして運良く入部が決まった。






この頃には自分の実力やポテンシャルをある程度、理解していた。






トップチームの公式戦に出場し、活躍することを目標に日々取り組むがどのカテゴリーの公式戦にも出場できそうになかった。






1年の時にそう思った自分はとりあえずチームのためにできることは何でもやろうと思った。






1年の時の練習後は毎日、最後まで残って片付けをしたり、オフの日に審判をしに行った。






2年の時は腰椎分離症が再発し、また4ヶ月ほどサッカーができなかった。






走ることすらできないが四審ならできる。






農大が担当の四審はほぼ全て自分が行った。






3年の時、運営委員という仕事に気づいたら就任していた。




「誰かやってくれる人いませんか?」というアナンウスがあったわけでもなく、




「僕がやります」と言ったわけでもない。





気づいたら仕事が割り振られていた。





何かめんどくさい事に巻き込まれたぞ...





と思いつつチームのためになるならいいかととりあえず仕事をこなしていた。





ただ本当にめんどくさいことになった。






当時、運営委員は1つ先輩の琢夢くん、同期の咲季ちゃん、僕の3人だった。






だからホーム試合があれば3人で役割分担してホーム運営を行う。






ところが琢夢くんは怪我の手術、咲季ちゃんは教職?インターン?留学?のどれかでいなかった。





チームのためとは言え自分には荷が重かった。





相手チーム・審判・連盟への連絡、当日必要な書類の作成など試合当日まで準備することが多い上、当日起こるアクシデント。






人生で初めてストレスからの胃痛を感じた。





そしてバタバタしながら作った書類には不備がつきものだった。





ため息をつきながら





流石、凡人だなと我ながらに思った。





しかし凡人だからミスが許されるわけではない。





チームに迷惑をかけないためにミスを未然に防ぐために凡人だからこそ、先にあることから逆算し準備する必要があった。





そんな逆算して考える日々を過ごして3ヶ月ほどたった頃、あることに気づいた。





自分のプレーについても逆算して考えていた。





数ヶ月後の試合に向けて今、どういう筋トレ、食事、トレーニングが必要になるか自然と考え、気づけば実行していた。





大学に入ってやっと成長を感じた。





まさかチームのためになると思い渋々引き受けてた運営の仕事から成長を得られるとは...





この頃には自分の実力、能力を完全に理解していた。





なのでミスや失点で落ち込むことがなかった。






ミスや失点を当然だとは思っていないが自分なら充分に起こる可能性があることだからだ。






そして最高学年になった。






気づけば今まで以上にチームのためにという気持ちが強くなっていた。






そう思わせてくれるチームメイトがいたから。





このチームメイトと目標を成し遂げるなめならなんでもしよう。そう思った。





今まで以上に様々なチームの仕事を引き受けた。




もちろん自分も試合に出たい、ピッチ内でチームに貢献したいと言う気持ちも強かった。





だがまずはチームが勝利すればなんでも良かった。





そんな思いで最後の1年は全身全霊で駆け抜けた。





だからどのような結果もすんなり受け入れることができた。





あの時こうしていれば...ではなく、だったら次はどうするかだ。





関東リーグの試合が年間22試合ある内、14試合メンバー入りさせてもらったが1度も出場することはなかった。





自分らしい...





関東リーグに出場したかった。






ただ悔しさはない。





1度も出場できなかった理由は痛いほど理解している。





あとは今後の人生に活かすのみ。








サッカーを始めて良かった。





心からそう思い過ごしている。






そして4年間、農友会サッカー部に所属させてもらって本当に良かった。





凡人をここまで成長させてくれた。





自分をここまで楽しませてくれた。





改めて、チームメイト、スタッフ含め農友会サッカー部に関わる全ての人に感謝したい。



ありがとうございました。






後輩達へ


3年

気づけばこうすけ「くん」と呼ぶやつは片手の指で数えれるほど。生意気な。

グラウンドに来て俺の顔を見るなり「ウィッスー」や「ウィーッス」と言う。

「こんにちは」だろ!

挙げ句の果てには帰り際は俺の顔を見るなり「じゃあねぇ」と言って帰る。

そんな3年だが1人1人サッカーに対して熱い想いをしっかり持っている。だからこそ1つになれば本当に強いと思う。1つになるとは全員の価値観を合わせることではない。互いの価値観を理解した上で全員が同じ目標に向かって進むことだと思う。

そして何より時には自分達を客観的に見てください。

3年のみんなならもうできるはず。



2年

お前ら全員、敬語忘れたんか?

2ヶ月くらい前から思ってたわ!

気づいたらほぼ全員タメ口使っとる。


人数の少ない2年は少ないからこそ互いに意見を言いやすい環境にあると思う。そう言った少数だからこそ生まれるメリットを最大限に活かしてただの少数ではなく少数精鋭となってください。

もう俺ら少数精鋭じゃね?とか思ってるやつがいたら危険よ。



1年

1年はこれまでの農大と何か違う物を感じさせてくれる。関東リーグ残り10試合で8勝しないと自力での昇格がなくなるという状況だった9月。大した雨風ではなかったが台風で練習がなくなった。もちろん俺は賢人を誘ってグラウンドに自主練をしに行った。しかし2.3.4年は誰も来なかった。正直、ショックだった。この意識レベルでは関東2部昇格は厳しいと感じた。しかし同時に希望も感じた。1年が数人グラウンドで自主練をしていた。オフの日に筋トレをする1年もよく見かける。自主練や筋トレをしたから良い結果が出るわけではない。しかし1年のような主体的に自主練や筋トレをしようとする意識、思考回路が重要である。

だからすごく期待しています!

ブレることなく継続してください!



GK陣へ

1番普通の人だった俺がいなくなるとほんとに変な集団だね。

ダンスしながら歩くやつ、逆立ちで歩くやつ、

手提げカバンにプロテイン1キロ入れて持ってくるやつ。あげればキリがない。変人ばっかり。でもキーパーはそのくらいが丁度いいよ。

個々に伝えることはあるがここで話すとキリがないのでまたどっかで話しましょう。



マネージャーへ

どんなに暑い日だろうと雨で寒い日だろうと一生懸命、チームのサポートをしてくださるその姿には頭が上がりません。

いつもチームを支えてくださり本当にありがとうございました。




あいさく、駿太へ

この1年間、運営を支えてくれてありがとう。

とくにあいさくは何かある度によく2人で確認し合ったね。とても心強かったよ。

駿太、勝手に指名してごめんね。


これからの農大を頼みます。





スタッフの皆様へ


本当に4年間(中垣内さんは3年間、蛭子さんは2年間)お世話になりました。立場上、この1年間はスタッフの方々と話す機会が多かったと思います。スタッフの方々と話すことで自分の考える幅が確実に増えたと思います。こんな僕でも頼ってくださったことは本当に嬉しかったです。ありがとうございました。




同期のみんなへ


7年間ありがとう。1年の時、2人で最後まで練習の片付けをしていた日々は懐かしいな。キャプテンを決める時、学年で様々な意見が出たが俺の中では陸の1択だった。そしてやっぱり陸で良かった。俺のことを誰よりも知っている陸に「耕輔、成長してるやん」と言われることが何よりも嬉しかったよ。



廉さん

俺も迷った時は廉さんならどうするかなってよく考えてた。そして我慢できずに廉さんによく電話かけたね。いつも突然、電話をかけて申し訳ない。この学年は廉さんの学年と言っても過言ではない、本当にありがとう。



太一

太一が1番サッカー上手いよ。太一の中では安定して60点のプレーだったかもしれないが俺らの中では安定して80点以上だ。

結局、最後まで太一の言ったことで笑ったことはなかったかも。



佑月

俺はゆづみたいにサッカー上手くないからゆづの悩みを理解してあげれなかった。辞めたいと相談された時も「今のお前からサッカーを取ったら何も残らんやろ」とゆづの気持ちも考えず強く言ってしまった。ほんとにごめん。だけどそれくらいここで辞める選手ではないと思ってたし、平国戦のゴールは本当にうれしかったよ。



夏稀

なつとはこの学年で1番一緒に試合に出たんじゃないかな?なつ自身にも色々あったと思う。

健全だった俺とはわけが違う。なのに俺より体張って守備をしていた。おかげでシュートが飛んでこないことがよくあったと同時に俺にとってすごく良い刺激になった。引き続きリハビリ頑張ってね。



隆利

関東リーグ、全試合スタメン。素晴らしい。

隆利がいなければピッチ内から4年が消える。そんなこともあったね。学年を代表して戦い続けてくれてありがとう。4年になってもオフの日に審判行ったり、栃木まで審判行ったりしたのはチームのためと言いつつ隆利から笑いを取りたかったからでもある。これガチです。変な体の張り方をしてしまいました。



明也

明也とは1.2.3年同じカテゴリーで戦ってきたから明也が継続してチームのために走り続ける姿を見てすごく刺激を受けてたよ。

クソつまならない量産型のボケもなくなると寂しいもんだね。笑いに繋がる見込みがなくても丁寧に突っ込むべきだったよ。無視してごめんね。



里玖

里玖にはほんとにたくさん笑わせてもらった。そのお礼をまだ言えてなかったね。ありがとう。俺は里玖がツボだったから。里玖と会わなくなってから1日の笑う回数が激減した。ていうか0の日もあるかもしれない。新作のモノボケ待ってます。



大晟

最後の3ヶ月くらいはサブ組の練習試合に一緒に出たね。トップでずっと試合に出てた大晟とはあまり一緒に試合をする機会がなかったから前日からとてもわくわくしていたし、やっぱり楽しかった。大晟からすれば不本意の試合だったかもしれないが一緒に戦えて俺は嬉しかったよ。



来音

被害者は覚えている。入部早々、来音と初めて目があった時に「きも」と言われたことを。な、な、なにこいつ?と思い第1印象は最悪だった。けど4年間共に過ごしたからわかる。とてもあつい男だ。

来音、俺の顔でかいじりの回数ちょっと多いか。月2くらいで頼むわ。今、週1でされてるから。



翔暉

下手くそな俺をいつも救ってくれてありがとう。ビルドアップで困った時は翔暉にパスと言うより、どんなボールでも良いからとりあえず翔暉に向かって蹴ってた。そしたら持ち前の技術で打開してくれていた。

ルームで会う度に上半身がゴツくなり、獣みたいになっている。人やめるんか?



晋太郎

俺は大した怪我をしたことないから晋太郎の気持ちをなかなか理解してあげることができなかった。相当、過酷なリハビリだったはず。なのに俺らの前ではそんな表情1つも見せず、笑いを取ってくる。そしてピッチ戻ってきたらしっかりと結果を残す。カッコ良すぎるだろ。



咲季ちゃん

チームの為に運営の仕事を引き受けてくれてありがとう。咲季ちゃんがいなければ4年目の俺はたぶん死んでいた。咲季ちゃんがいたから最後の1年はすごくサッカーに集中できた。本当にありがとう。そしてしょうもないウソばっかりついてごめんね。だって全部信じるやん。ウソついといてめんどくさくなって本当のこと言ってない時もたまにあったかも。




かわしくんへ


かわしくんからはGKのスキルや考え方などたくさんのことを教えていただき、学ばせていただきました。またグローブや練習着いただいだけでなく、プロになってからも面倒を見ていただき本当にありがとうございました。

かわしくんと出会ってなければ、大学サッカーをここまで楽しめていなかったと思います。

これからも頑張ってください。



山下くんへ

OBとなってからも貴重な休日の日に農大の運営に携わってきただき、ありがとうございました。とても心強かったです。




八幡台JSC、ミラグロッソ海南、大阪桐蔭高校のスタッフの方々へ


各チームで教わった人としての大切な心の部分はたとえ大学サッカーであっても変わらない普遍的なものでした。これでサッカーは引退します。本当にありがとうございました。




家族へ


おとう

小学生の時は仕事を早く切り上げて自主練を手伝ってくれてありがとう。中学生の時も仕事を早く切り上げて遠いグラウンドまでいつも送り迎えをしてくれてありがとう。ただ怒ったおとうが怖すぎて小、中学生の時は怒らせないように必死だった。自分が上手くなる為でもあったがおとうに怒られない為に自主練をしていた時もあった。サッカーノートは書かされていたも同然だった。そんな過去を振り返りたまにLINEで「ちょっと厳し過ぎたかな」と連絡が来る。決してそんなことはない。おとうがいなかったら俺は凡人以下だった。だからこそすごく感謝している。ここまで多大な応援とサポートをしてくれたこと、ダメダメで泣き虫だった俺をここまで引き上げてくれたこと。本当にありがとう。



おかん

今では考えられない。中学生の反抗期、自分の為を思って言ってくれているおかんに対して「うるせーよ」と言ったことが。

当時の自分をブン殴ってやりたい。

身近で大切な存在とはなくなってから気づくものだ。高校の時、入寮して3日後くらいにおかんと電話したよね。おかんは覚えてないかな。でもわざとすぐ切った。たった3日でも精神的にきつかった俺にはおかんの声を聞いてとてつもない安心感を感じ泣きそうになったから。

一緒に暮らさなくなってからしか気づけなかった。母親という存在の暖かさに。

正直なことを言うと関東リーグ最終節の後、引退の報告と感謝の気持ちをおかんに伝えようとLINEで打ってる時、涙が止まらなかったよ。

本当にありがとう。



栞菜(姉)

まず大学生活、いろんなものを買ってくれてありがとう。

転職したばかりで忙しいのに関東リーグ最終節に応援に来てくれた時、俺が出てないのに引退試合だからと言って泣いてたよね。

ちょっときもかったよ。

でもそれだけ俺のサッカー人生は見守ってくれていて応援してくれてたんだよね。

本当にありがとう。





長い文にはなりましたが最後まで読んでいただきありがとうございました。





そして次回のブログは



同期の中で最も成長を遂げ、身体を張った守備に定評がある池田夏稀選手。




彼が4年間経験したことは挫折なんてものじゃない。




当時の彼の心境はおそらく僕の想像を絶するだろう。





次回、池田夏稀選手!


お楽しみに!

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