4年引退ブログ
『 出会いと縁 』
栗原 大輔(浦和西高校)
まず初めに日頃から東京農業大学農友会サッカー部をご支援、並びに応援してくださっている皆様、誠にありがとうございます。
この場を借りて、御礼申し上げます。
そして今後も応援よろしくお願いいたします。
思いやりと笑顔溢れる同期唯一のマネージャー 小野ひかり よりご紹介に預かりました。
地域環境科学部 造園科学科
サッカー部主務 栗原大輔です。
このブログでは、今までサッカーを通じて出会った、たくさんの方々に興味を持ってもらえるよう、これまでのサッカー人生を振り返りました。
まとまりのない文章になってしまいましたが、お時間のある時に読んでいいただけたら嬉しいです。
あと、去年の主務(作家)の立川廉さんのブログとは絶対に比べないでください。
自分は2002年 日韓ワールドカップが開催された年に
埼玉スタジアムから自転車で10分ほどの家に生まれた。
地域には日本一のクラブ「浦和レッズ」があり、サッカーをやらない理由がなかった。
幼少期
サッカーを始めたきっかけは覚えていないが、
ちゃんとサッカーを始めたのは幼稚園年長の時。
それまでも毎日ボールは蹴っていたが、仲の良かった友達の紹介で埼玉スタジアムサッカースクールに通い始め、小学校に入学すると同時に地元の少年団に入団した。
1年生の時、同学年は自分だけで、主に試合は年上の年代に出場させてもらっていた。
サッカーがとにかく好きで、初めての登校日はアディダスのスパイクを履いて登校した。
それだけじゃなくて、足に馴らすためという理由でスパイクを履いてディズニーランドに行ったこともある。
そのくらいサッカー小僧だった。
小学校が全校生徒で150人程度の小さい規模だったこともあって、休み時間には年上とよく一緒にサッカーをしていた。
3つの上お兄さんたちに混ぜてもらったこともあった。
(今更ですが遊んでくれてありがとうございました。)
また、少年団の活動が土日だけだったこともあって、平日は埼スタサッカースクールに通っていた。
この埼スタサッカースクールで、サッカー選手としても人間としても本当に成長したと思うし、なにより素晴らしい“出会い”があった。
長年担当してくださった伊藤コーチには、ピッチ内のことだけじゃなくてピッチ外の振る舞いや言葉づかい、自分の生活そのものを成長させてもらった。
今でも覚えているのが「ナンバーゲーム」という練習。
各チーム自分のゴールの横に並んで、コーチが言ったことをクリアしてきた選手だけが、そのセットのミニゲームに出ることができる。
例えば、「今日、車で親に送ってもらったときに“ありがとう”と言った人」とコーチが言う。
その場合、その日に親にお礼を言った選手は出場できて、
お礼を言わなかった選手はただ試合を見ているしかない。
そのため試合に出られなかった選手は“来週は忘れずにちゃんと言おう”という発想になる。
このお題以外にも、「昨日脱いだ靴下を裏返しのまま洗濯機に入れてない人」とか「宿題終わらせてきた人」など日常生活すべてが出題範囲だから気が抜けない。
嘘をついてしまえば試合には出られるのだが、当時の栗原少年は素直だったから、正直だったと思う。(今も素直だけどね)
翌週、ナンバーゲームに出るために、恥ずかしいけど自分を押し殺して、親にありがとうと言っていた。
とてもかわいいですね。
今考えると些細なことだけど、きっとこの小さな葛藤、積み重ねが成長に繋がったと思う。
埼スタスクールは火曜日から金曜日の4日間やっていて、
基本的には毎週同じ曜日に行くのだが、予定が入ってしまったときは他の曜日に振り替えることができる。
これが個人的にこのスクールの面白いところだと思っていて、
曜日ごとに選手が違うためたくさんの新しい“出会い”があった。
そして、たくさんの“仲間”ができた。
そこで仲良くなった数人は、元々自分が入っていた少年団に入ってくれて、
より強いチーム、より楽しくサッカーができるチームになった。
まるでイナズマイレブン。
みんなが加入してくれたおかげで、弱小だったチームは地域では多少名のあるチームになって、強いチームとも試合できるようになった。
埼スタサッカースクールの他にも「キャスク」と「エクセレントフィートスクール」という2つのスクールにも通わせてもらった。
「キャスク」とは足を速くするスクールで、アジリティや判断、体幹など、スポーツをするうえで必要な身体の動かし方をトレーニングできるスクールだ。
もう一つの「エクセレントフィートスクール」とはJ下部組織に入ることを目的としたサッカースクールで賀久は後輩です。
どちらも同じコーチが教えてくれるのだが、
特にエクセレントフィートスクールはレベルが高い選手の中、ボールが取れるまで終わらない対人トレーニング、罰ゲームの往復走り、手押し車など、とにかくきつかった。
毎週木曜日が来ないこと願っていた。
でもそんな高いレベルでサッカーすることで、身体的にも精神的にも成長することができたし、中学以後のフィジカルメニューも、エクセレントに比べればきついとは感じなった。
小学5年生になると、地域のトレセンが始まった。
少年団での練習よりもレベルの高い選手と練習したり、遠征に行ってJの下部組織のチームと試合をしたりといい刺激を毎回もらえたし、
なによりここでも素晴らしい“出会い”がたくさんあった。
特にFC浦和の活動では、“赤鬼”みたいなコーチ(いや、赤鬼)に教えてもらった。
トレセンには行く前は鬱になりそうだったけど、怒鳴られながらプレーする中で成長は感じた。
特に頭と心の部分。
プレー中の“予測”というものを教えてもらい、甘々だった自分と向き合うきっかけをもらった。
間違いなく大学までサッカーを続けられた要因の一つだと思う。
そんな小学生時代を終え、中学は地元の中学校の部活に入った。
理由は、どこのクラブチームでプレーしたいとかは特に考えてなかったからだ。
あまり強い学校ではなかったため、夏から秋にかけてボールはあまり使わず、「サッカー部」から「駅伝部」に変わるような、そんな部活だった。
1年生の時は、朝と放課後で6km走らないと練習に参加できないルールができた。
当時のきつかった記憶は特にないけど、その理不尽のおかげで、今では長距離走が自分のストロングになった。
1.2年生の時は主に1つ上の代の試合に出させてもらっていた。
今でもフットサルに誘ってもらえるほど、みんな優しくて、プレーしやすい環境だった。
周りは全員、自分よりも身体が二回りくらい大きい先輩たちばかり。
その中でどうプレーすればいいか。自分の弱点を隠す術を日々学んだ。
だが、結局中学時代は県大会とは程遠い結果しか出せず、最後の市大会二回戦では1-6で大敗し、引退した。
サッカーよりも本業じゃない、駅伝の方が成績は良かった。
そんな中学時代を過ごし、高校は色々なご縁があって浦和西高校に入学した。
浦和西高校は自分が中学3年生の時にインターハイで全国に出場し、選手権でも決勝まで進んだ。サッカーが強かったことや偏差値が自分より少し高かったこと、応援の雰囲気も良かったことなど、とても魅力を感じた。
また、当時の監督、コーチが自分と同じ中学校出身だったこともあって、中学時代から気にかけていただいた。
この高校で、中学校最後の試合で自分たちに勝ったチームのキャプテン慶太と、たまたま同じ高校で出会った。
後に自分がキャプテンで慶太がエース?みたいな。
こんな“出会い”と“ご縁”に恵まれた。
1年生の時から時々トップチームにも参加させてもらったが、基本は1年生のカテゴリーでプレーした。
そこで思い通り試合に出られない時期を経験した。
それまでは試合に出られてあたりまえの環境だったから、
どうすれば試合に出られるのか分からなかった。
でも、なんとなく走るしかないと思った。
練習試合が終わった後、グラウンドの縁をひたすら走った。
そんな1年間を過ごし、2年生になる前の鹿島遠征。
この遠征で、後にフランスのチームと契約する1つ上の先輩、凌太朗くんと仲良くなり、自分のサッカー観を変えてもらった。
それまでの自分はトップチームのスタメンとはかけ離れた選手で、凌太朗くんも自分の名前すら知っているか怪しいほど。
たしかアップの2人組での基礎練を組んだのがきっかけで、試合以外の時間でもサッカーについてたくさん話した。
ボールの置き所とかドリブルのコース、言語化の難しい感覚的な部分まで話してくれた。
そのメモは今でも残っていて、大学に入っても調子が悪くなった時は、頭の中を整理するために、見返すようにしていた。
凌太朗くんとの出会いは自分にとって、大学までサッカーを続けられた要因だ。
鹿島遠征以降、自分はトップチームに定着できて、S1リーグ(埼玉県一部リーグ)においてレベルの高いチームを経験できた。
(当時は昌平、西武台、浦和南そして井上修吾擁する武南とかね)
高校2年生の夏には、さいたま市の選抜としてドイツ遠征に行かせてもらった。
ここでは思わぬ“出会い”があった。
当時は知らなかったが、現農大サッカー部のGKコーチのゲンさんと出会っていたらしい。(沖縄合宿でゲンさんのスマホの写真に自分が写っていた。)
蛭子さんも同じ地域にいたらしくて、大学でもまた“ご縁”がありました。
ドイツでのサッカーは日本とは大きく違った。
極端な話、日本では上手いと思っていたプレーはぶちぎれられる。
今考えると農大と似たような基準、考え方だと思う。
最初は初めて会うドイツ人にきれられてむかついたけど、
どういうプレーが褒められるのかを理解していくにつれて、
シンプルでタッチ数の少ないプレーを選択できるようになり
とても楽しくなっていった。
高校に入って自分のサッカー観が変わるような出来事もあって、
浦和西高校のキャプテンに指名してもらい公式戦の背番号は10番をいただいた。
10番キャプテンなんて主人公かよ。
かっこよすぎるでしょ。
でもなんで全くモテなかったのでしょうか。
みなさん教えてください。
3年生になると新型コロナウイルスが流行した。
チームとして練習が出来なくなり、リーグ戦がなくなり、インターハイもなくなった。
そんな時でも地元のみんなで集まってサッカーをしたり、ディズニーまで走ったりと前向きに過ごした。
試合のできない難しい時期を終え、迎えた全国高校サッカー選手権埼玉県予選3回戦
相手は昨年の選手権で負けた西武台。
前半、用意していたセットプレーが決まり、2-0リード。
ハーフタイム、「この状況で負けたら一生後悔する。2-0が一番危ない点差」
そんなことを頭の中で考えていた。
後半3点奪われ
2-3。
こんな試合でサッカー人生は終われないと思った。
時系列としては戻るが、高校2年生の頃、
実家が植木の卸売業を営んでいる関係で、大学進学先の候補として東京農業大学を考えていた。
そして当時、浦和西のGKコーチをしていた杉下コーチが
農大サッカー部のGKコーチも兼任していることもあって
杉下コーチの紹介で農大の練習に参加させてもらった。
高校サッカーとは強度が違いすぎて、全く歯は立たなかったが、
農大でサッカーを続ければ間違いなく、上手くなるという確信はあった。
そして部活と並行して、一般受験の勉強を始めた。
毎朝、7時半くらいに学校に行き教室で勉強、夕方の練習が終わり次第、自転車でマックに行って勉強するのが習慣だった。
23時までマックにいた日もあった。
受験勉強は精神的にきつかったけど、それを自分よりも1年長くやっている駿太とJOJIには尊敬です。
なんとか受験を終え、3月から農大サッカー部としての練習が始まった。
余談だが、新入生のグループラインで新入生はそれぞれの高校の卒業式の日程を送るのだが、
最も遅い自分の卒業式の日に、新入生初めての練習が始まった。
いじめでしょうか。
そんな冗談は置いといて、1日遅れでの大学サッカーが始まった。
知っている先輩はいないし、新入生のみんなはもう仲良くなってるし、初日は緊張していた。
1年生の頃の新良介は話しかけにくいしさ。
当時の4年生は怖いから
なるべく4年生のいないグリッドでボール回しをして
4年生と一緒のグリッドでミスした時にはすぐに謝っていた。
試合中、ゆいと君から怒られる時の「くぅ~り~」は一生忘れることはないだろう。
でもそんな4年生はみんな大人で、1人1人の発言に説得力があった。
和田くんは人生3週目みたいな聖人だし、
克也くんは自分の守備範囲までスライドしてくれるし、
篤史くんは本当の社会人みたいだし、
壮平くんは岩みたいにでかいし、
他にも尊敬できる先輩がたくさんいた。
そんな4年生は個人としても、そして自分たちが4年生になった時の学年の目標でもあった。
1年生の時の自分は、最低限与えられた仕事をこなし、農大サッカー部の歯車になろうと思った。
プレー面では、1年生の時はとにかく練習がきつくて、ついていくので精一杯。
自分に筋力が足りないことは明確だったから、トレーニングルームには行っていた。
だけど同期に同じ学科の選手が誰もいないこともあり
いつも一人でトレーニングルームに行っていた。
案の定続かない。
自分ではやっているつもりだったけど。
それどころか同期に誘われても
「今日は課題があるからしょうがない」
「バイトがあるから」
「練習がきつかったから」とか
自分を正当化する言い訳ばかり。
あおくんもブログで同じような事言ってたね。
けど、共感できる人は少なくないと思う。
こんな生活を2年生の途中くらいまでしていた気がするが、
ある時から同期の数人と一緒に行くことになり、それが習慣になった。
トレーニングの質も向上し、メニューも色んな人に聞いて
自分に合っているものを取り入れていった。
バイト先もジムと温泉が無料で利用できるところに変えて、
バイト後には蒼太郎とトレーニングや温泉に入り身体のケアをするのが習慣になった。
バイトも筋トレも楽しかったね~たろたろたろたろたろ
フィジカルは元々、自分のウィークだったことや、習慣化するまでにかなりの期間を無駄にしたこともあって、強みになるほどにはならなかったけど、
学年が上がっていくにつれて大学レベルの強度についていけるようになったし
ベンチプレスの重量も入学当初の倍上がるようになった。
間違いなくみんなと一緒に筋トレした成果だと思う。ありがとう。
1年生の時は途中出場が多かった社会人リーグも2年生になると、ほとんどスタートから出場させてもらって、充実したシーズンを過ごした。
そして3年生になり、シーズン前に3.4年合同合宿と全体合宿という2回の合宿に行った。
特に、監獄のような宿舎でがんがん走って、夜は数名が涙を流すような学年ミーティングが行われた3.4年合宿は、この学年にとって大きな分岐点になった。
きっかけはランメニュー中に3年生の1人が練習を放棄したことだ。
それを周りの同期も見ていたが、誰も彼の所には行かず、結局4年生が話を聞きに行ってくれた。
その3年生とは
後に副将を務め、今となっては1年生から聖人や神などと言われることになる新良介。
(決して聖人や神などではありません。)
学年ミーティングで話題となったのは、良介が練習を抜けてしまったことではなく、
同期である自分たちが誰も良介のもとに行かなかったことだ。
たしか児玉さんに「干渉しろ」と言われ出したのはこの時期だったと思う。
その夜、会議室に集まり学年ミーティングを行い、初めてみんなで本音を言い合った。
1.2年生の頃の良介というと、学年としてやらなければいけない練習の準備はやらず、それでもサッカーの技術は高くて、2年生からトップチームでスタメン。
自分としてはチームの仕事をやらずに、トップチームで活躍している同期は、たとえ同期とはいえ応援する気にはならなかった。
これが本音だった。
その日までは下のカテゴリーの選手がトップチームのスタメンにそんなことは言えなかったが、本音をぶつけた。
良介は自分の本音を受け止めてくれたし、変わろうとしてくれた。
そのミーティング以降、良介とは本当の意味で“仲間”と思うことができたし、その後の無期限サポートの時も個人の問題ではなく、学年全体の問題として話し合えたのだと思う。
逆に、このきっかけがなかったら、この学年は今でも本音を隠し、相手の顔色を伺うだけの、表面上だけの関係だったかもしれない。
2回の合宿が終わり、個人としては今シーズンこそはアイリーグで活躍し、トップチームに絡めると思っていた矢先、来年も社会人リーグでプレーしてほしいと言われた。
(この年から社会人チームはサッカー部OBの方と学生の連合チームに変わった)
実質上の関東リーグ構想外。
児玉さんには「社会人リーグで得るものもある」と言われたが、その時は納得できなかった。
社会人チームの農大OBの方々はみんな優しくて上手くて、プレーしやすい、学生が入りやすい環境を作ってくれた。
社会人リーグが開幕し、最初の二節はともに早稲田大学と日本大学という学生のチームだった。
結果は一分一敗。
勝ってはいないから、良い結果だったとはいえないかもしれないが、
内容を見るとどちらも大敗してもおかしくなかった。
でもOBの方々は魂のこもった試合を体現してくれた。
失点したときのチーム全体への声掛け、雰囲気づくり、身体を張ったプレー。
自分たちに必要なことばかりだった。
最初は、単なる島流しとしか思えなかったが、結果的には学ぶものが多く、
とても充実した時間を過ごした。
OBのみなさんありがとうございました!
社会人リーグでの経験もあり、その後復帰したアイリーグでは、シーズン終わりまでほとんどの試合でスタートから出場することができ、勝利する試合も多かった。
そして10月、勝てば昇格が決まる東京学芸大学との試合。
自分はアイリーグチームのキャプテンに指名してもらった。
その前の週に前ももの肉離れをしていたが、なんとしても試合に出るため、
毎日に温泉に行きケアをして試合に臨んだ。
前半2-0でリード。
なんか聞いたことあるスコアですね。
でも後半14分 デブライネのゴールで3-0。(明也くん)
さすがに勝ったと思ったが、気を抜いたつもりは一切なかった。
だが
残りの30分で3点を取られ3-3。
その後の作新学院大学との入れ替え戦でも勝てず、2部残留。
とにかく悔しくて、情けない気持ちが込み上げてきて、勝手に涙が溢れてきた。
1年間、一緒にアイリーグでプレーしてきた4年生たちのために昇格したかった。
その後の長期オフでは、毎日限界まで自分を追い込めたかはわからないが筋トレ、ランニング、選手としてあたりまえにやることは積み重ねられた。
そしてラスト1年。
自分は主務として幹部としてチームをまとめる立場になった。
3年生の時から廉さんや耕輔くんの姿は見ていたが、想像していたよりはるかに大変だった。本当に2人には尊敬しかありません。
新チームになって最初の学年ミーティングの資料を今振り返ると、
ピッチ外の役割について昨年度の課題をあげながら、今シーズンのチームの役割(ピッチ外での仕事)についての内容が書かれていた。
そして目立つように「4年生が責任を取る」と書かれていた。
個人的にはピッチ外の仕事の責任を明確にしたことは、4年生全体の「当事者意識」を高められた要因の1つになったのかなと思う。
実際、1年を通してピッチ外で大きなミスや問題はなかった、多分。
2月の後半になり、沖縄合宿があった。
この合宿は最悪な気分からスタートした。
合宿に持っていく備品のリストが曖昧で備品が空港で没収されてしまった。
そんな大したことではないのだが、自分が幹部だったこともあり、かなり責任を感じていた。
行きの飛行機では「あー墜落しないかな」とか思っていた。
合宿先でも、凱の引退ブログにも書いてあったように、ピッチ外の主務としての仕事に影響され、サッカーどころではなかった。
サッカー以外の時間では練習時間やメンバーの確認、練習場所の確認、食事の時間の確認、バスの出発時間の確認など、常に頭を使った。
周りを見て「気づき」を増やした。
ストレスはかなり溜まったけど、夜のサウナ・温泉の時間は格別だった。
新しく加入したゲンさんともコミュニケーションがとれて、距離を縮められた。
心身ともに癒されて、充実した時間だった。
またいつか熱波師栗原は現れます。
最初は頭を使い「気づき」を増やすことに苦労したが、徐々に慣れていった。
すると、ピッチ内での評価も上がり、初めてトップチームに定着することができた。
それも主にフィジカル面やプレー面ではなくて、声掛けなど頭の部分が評価された。
ピッチ外の「気づき」がピッチ内での成長につながったと思う。
トップチームでの最初の練習はトップチームの緊張とピッチ外のストレスもあってか、
いつも通りのプレーができなかった。
そんな時に凱から「大丈夫」と一言かけられて、変な力がスッと抜けた。
その後はいつも通りプレーできて
合宿中のゲーム、練習試合では全勝した。
凱は覚えているかわからないけど、あの一言に救われたよ。ありがとう。
あと、あの時の悠天との2ボラは最強だった。来年期待しています。
ここで話はちょっと逸れるけど、
合宿の夜の温泉の時間は毎回記憶に残っていて、青汰と修吾と腹を割って話したり、
いつも話しかけにくいスタッフ陣と色んなことを話したりと、
気づいたらいつも消灯時間を超えていた。
中垣内さんの面白い話とか、ゲンさんが軍隊で学んだ格闘術とか。
最後の菅平合宿でもスタッフ陣と馬刺しを食べながら、話をしたことはあの合宿のハイライトだ。
ぜひ1.2.3年生も次の合宿にでも話してみてほしい
廉さんにも言われたことで、選手とスタッフとのコミュニケーションの取り方は大事。
自分たちはちゃんとやっていたとしても、スタッフからは出来ていないと思われたり、方向性が違っていたりすることもある。
同じ目標を目指しているからこそ、一定の距離は保ちつつも、たくさんコミュニケーションをとることは大切だと思う。
話を戻すが、最悪な気分で始まった沖縄合宿だが、
終わってみればとても成長できた合宿になった。
合宿から戻り、
自分はトップチームで練習する日々が続いた。
関東リーグ開幕まで2週間となった平日の練習、
足首にボールが当たり、捻った。
けどそんなことよくあるしすぐ治ると思っていた。
だが2か月経っても痛みが引かず、結局、骨挫傷ということが分かり、
復帰まで3ヵ月かかった。
その期間は、練習の手伝いやピッチ外でサッカー部の仕事、リハビリ面ではハイアルチでのラン・ウォーク(ダイエットワーク辛口レベル8おすすめです)など、
自分にできることはやった。
ハイアルチ祖師ヶ谷大蔵・代々木上原のスタッフのみなさんお世話になりました。
その成果もあり、復帰明け2週間でトップチームに復帰できた。
コンディションも良く、関東リーグのベンチ入りが濃厚な序列にまで上がった。
しかし、復帰した週末の山梨学院大学との練習試合。
前回とは逆足を剥離骨折。
「保険請求でまたお金入るわ」とみんなに冗談を言うしかなかった。
でもそんな時も怜於が足首を固定してくれて、他のみんなもバケツに氷を大量に入れて冷やしてくれた。
(怜於はまじでトレーナーみたいだったけど、修吾は俺をいじめるために氷を大量にいれてただけだよね)
そのおかげで回復も早く、2か月で復帰することができた。
2人以外にも助けてくれた人ありがとう。
骨折から2か月が経過し、引退まで3ヵ月というところで菅平合宿に行った。
正直焦りもあって、ロングボールもまともに蹴れない状態だったが、合宿1日目から合流した。
ロングボール以外のプレーは問題なかったため、以前同様2週間くらいでトップチームに戻るつもりでいた。
強度が上がらない、寄せてもその後ついていけない。
理由は明確。
今年に入って5か月もサッカーをやってなかったせいで下半身の筋力が落ちていた。
しかも後々、両足首と左膝に余分な骨が見つかり、スクワットなど下半身の筋トレもまともにできない身体だった。
関東リーグに出たいけど、思うように努力できない。全力でプレーできない。
そんな状態で復帰して休んでを繰り返し、引退まであと1か月のところまで来た。
正直、関東リーグメンバー入りは現実的ではないと感じていた。
練習中も、足首を気にして優しい後輩たちは、
自分が怪我しないように、球際を強くいかないよう気遣ってくれることもあった。
気の使える後輩ばかりで嬉しい反面、4年生としては、とても情けなかった。
筋トレ中も、「関東リーグに出られないのにやる意味はあるのか」と疑問を抱く時もあった。
そんな時に去年の明也くんを思い出した。
明也くんも一年前自分と同じように、足首に余分な骨があり同じ時期に苦しんでいたが、
皆さんご存じのように関東リーグ最終節に出場して、農大を関東リーグ3部残留に導いてくれた偉人だ。
なんとなく引退ブログを読んだ。
読み終わり、気づいたらジムにいた。
その日の夜、
明也くんに電話して、怪我の状況や今の序列、気持ちなどいろいろ話して相談に乗ってもらった。
「このままじゃ引退ブログでみんなを感動させられない、最後に大逆転劇起こそうと」そんなことも言いながら、電話の最後に明也くんに励まされた。
自然と涙が出た。
結果的に関東リーグに出られなくても、やるべきことをやらない理由にはならない。最後までやりきろうと決めた。
数日後、明也くんが行った注射を試したところ、注射の効果があり、久しぶりに思い通りにサッカーができるようになった。
しかし、その2週間後の練習中
今度は左腕を骨折した。
俺そんなに悪いことしたっけ?
さすがに厄除け行きます。
骨折した時は逆に冷静で、担架に運ばれながら
「今日が最後の練習か」
「4年間楽しかった」
とか、そんなことを思っていた。
くっっっそ痛かったけどね。
その後救急車で運ばれ、病院で腕を見るとちゃんと曲がっていた。
分かる人には、ハリーポッターと秘密の部屋で、クィディッチ中に骨折したハリーポッターといえば分かりやすいですね。
引率してくれた良潤、救急車の手配や担架で運んでくれた人、その他の人もありがとうございました。
今は引退ブログを書けるくらいには回復しました。
サッカー選手栗原大輔のブログはここで終わりますが、
怪我の多かった最後の1年間、自分がピッチ外の部分で何をしていたかを話そうと思う。
「隙のないチーム」
児玉さんや蛭子さんからずっと言われ続けた言葉。
試合中に生まれる隙は、それ以外の隙が影響してくると自分は思う。
分かりやすいのが、昨年のアイリーグ東京学芸大学戦。アップから浮ついた雰囲気ができてしまい、誰もその雰囲気を締められなかった。
そんな失敗を今年は起こさないよう、全体で100人もいるチームで隙がなくなるよう考えた。
責任感を持ってもらうために各学年にリーダーを指名
ブラザー(各学年が所属する縦割り班)での注意喚起
聖人によるスピーチ
「なぜピッチ外から隙をなくさなければいけないか」を
下級生に理解してもらえるよう試行錯誤した1年間だった。
また、最後のシーズンが始まる前、主将、副将、学連、主務とスタッフ陣でのミーティングが開かれた。
内容としては新チームでの仕事の役割と、関東リーグの試合日にイベントを3回やってほしいという話だった。
目的は「応援されるチーム」になるため。
前年にも関東リーグホーム最終節に地域の小学生を招待してサッカークリニックを開催したが、そのようなイベントを追加で2回、選手主体で企画・運営しなければならなかった。
学年ミーティングで、何度も話し合いを行い、
前期のホーム開幕戦に
農大の全学応援団の方を招いての「集中応援」(ハーフタイムショー)の開催、
後期に
「サッカークリニック」の開催と
「秋祭り」の開催
という3案を実行することが決まった。
イベントの他にも、少しでも多くの方に農大サッカー部を知ってもらうために、試合日が記載されているポスターを制作し、学内や農大通りの飲食店にも貼っていただいた。
集中応援を開催するにあたり、まず自分と良介で全学応援団の方に依頼書を提出しに行った。
最初は2人ともリーダー部の圧にかなりビビっていたが、皆さん優しく話してくれて前向きに自分たちの提案に乗ってくれた。
1年間で合計、ホームゲーム4試合に来ていただき、全試合で勝利することができた。
本当に力になりました。ありがとうございました!
集中応援が終わり、次のイベント「秋祭り」の企画を考え始めた。
たまたま関東リーグと農大のホームカミングデー(ミニ収穫祭)と重なっていたため、来場された一般の方を集客のターゲットに、同日に縁日や自分たちで畑を借りて野菜を育てて販売する案など、様々な案が出た。
話し合いの末、バイオビジネス学科の選手が実習でお世話になった、北海道の矢尾農場さんのジャガイモと、
前期からひかりと蒼太郎を中心に作成してくれて、受注販売はしていたサッカー部のグッズ
をマルシェで販売することになった。
どれほどジャガイモを仕入れるのか、いくらで販売するのか、
初めてのことだからわからないことだらけだった。
荒木と修吾と夜10時まで話し合った日もあった。(あの夜のひじり家は格別だった)
そして当日、ジャガイモは完売。
その他も朝からみんなの協力もあり、大きな問題等はなく終えられたし、
なにより試合に勝ってくれたことが嬉しかった。
矢尾さん、秋吉さん、農大サポートの小畑さん、その他協力していただいた方々ありがとうございました。
最後のイベント「サッカークリニック」では、
自分は怪我の影響であまり役に立てなかったが、
約200人の小学生が来てくれて、関東リーグの観衆も504人と、
自分が在籍した4年間で最多だった。
そしてこの試合で関東2部昇格が決まった。
自分は関東リーグには1分も出場できなかったが、関東昇格が決まった瞬間
人生で初めて嬉し泣きをした。
自分が最後、ピッチに立てなかった悔しさも少し交じっていたけど
肩の荷がスッと下りた。
これまで経験したきついこと、苦しいこと、理不尽なこと、すべてが全て報われた気がした。
それほど、チームのためになることはやってきた自負があるし、
農大を関東2部に昇格させたい気持ちは強かった。
けど、関東リーグで結果が出ていなかったら、これまでの苦労は報われなかったと思う。
試合に出ていたメンバーには感謝しかありません。ありがとう。
その後の引退試合でも、
おいしいところを聖人が持っていき、
勝ってこの代を引退させてくれた。
後悔はありません。最高の4年間を農大で過ごせました。
ありがとうございました。
17年間サッカーを続けてきたおかげで
たくさんの“出会い”と“ご縁“がありました。
きっと全力でサッカーを楽しんだからこそ
周りの人に恵まれたサッカー人生を送れたのだと思います。
今まで出会ってくれた方々、ありがとうございました。
そしてこれからもよろしくお願いします。
最後に
児玉さん
4年間お世話になりました。
この4年間でサッカーの本質を考える大切さを学びました。
ゴールという目的に沿ったプレー選択、
ボールを受ける前の準備の部分、
ターンの向きなど、細かい部分まで指摘していただきました。
また、ピッチ外の人間性の部分でも口酸っぱく指導していただいたおかげで、
選手としても人間としても成長できたと思います。
ありがとうございました。
蛭子さん
3年間、多くの練習を見ていただきました。
アイリーグでは多くの試合でスタートから出していただき、最後の2試合ではキャプテンにも任命していただきました。
蛭子さんとアイリーグ1部に昇格できなかったことは心残りですが、
蛭子さんからの信頼を感じていたし、自分も蛭子さんのことを信頼していました。
ありがとうございました。
あと、最後の涙は反則です。
ゲンさん
1年間という短い時間でしたが、それ以上の時間を過ごしていたと感じるほど、充実した毎日でした。
GKコーチということもあり、直接練習を見ていただく機会は多くなかったですが、
いつも親しく接してくださり、ピッチ外の部分でも相談・アドバイスをしていただきました。
ありがとうございました。
高津さん
最後の1年間大変お世話になりました。
怪我からの復帰日も自分のわがままを聞いていただき、リハビリ中も丁寧且つ論理的にメニューを教えていただきました。
おかげで理解したうえでリハビリに励むことができました。
それ以外にも、毎週の異なるテーマのミーティングも興味深いものが多く、
もっと早く知りたかったです。
ありがとうございました。
中垣内さん
1年生の頃から主に社会人リーグでお世話になりました。
中垣内監督のT.U.A.SCは負ける気がしなかったし、中垣内さんのために勝ちたいと思える、そんな監督でした。
4年生になった頃、「自分の代で関東2部に昇格したら、一生美味しい酒が飲める」と中垣内さんから話があってから、その言葉を信じて頑張ってきました。
一生美味しい酒が飲めそうです。
ありがとうございました。
浦和西高校、美園中学校、浦和美園scjr スタッフの方々
読んでいただけいただいているかは分かりませんが、今まで大変お世話になりました。
小中高での皆様のご指導のおかげで大学までサッカーをやりきることができました。
関東リーグ出場という形で恩返しすることができなかったのは悔しいですが、
また違う形で恩返しできればなと思います。
ありがとうございました。
小栗整骨院、はねき接骨院の方々
大変お世話になりました。
皆様の治療、ケアのおかげで大学4年までサッカーを続けることができました。
ありがとうございました。
賢人
来年、関東2部の農大を頼むよ。
気負いすぎず賢人らしくがんばれ。
ひかり
4年間お疲れ様。
栄養の授業、学生団体の活動、他にも部活以外のことも本当に大変だったと思うけど、
グラウンドではいつも笑顔で選手をサポートしてくれて本当に尊敬です。
そして、関東2部に昇格できたのはひかりのサポートがあったからです。
ありがとう。
修吾
4年間お世話になりました。
1年生の時からたくさんの試合に一緒に出て、登下校も一緒で、大学時代で1番長い時間を過ごしたと思う。
試合数以上にラーメン屋にも行きまくったね。
勝手に自分の分のライス大盛りを注文し、「早く食べなよ、箸が止まってるよ」と煽ってくる。
試合中、パスミスをすると「スパイ」と言ってくる。
怪我をすると「無様だね」と言ってくる。
最高に楽しい日々を過ごせました。
サッカー以外のチームの問題についても、
裏幹部としていつも客観的な視点から的確なことを言える、
あんたは天才だよ。
ありがとう。
(裏幹部とは修吾と怜於と自分が入っているLINEグループで仕事の割り振りとか、チームの問題とかを相談していました。)
青汰
青汰とボランチを組んだ試合は勝った記憶がない。
川上村の山学とか、駒沢とかね。
怪我する前はいつも俺よりちょっと上の序列にいて、勝手にライバル意識を持ってた。
試合中意見をぶつけ合ったときもあったけど、4年になって下級生にストレートに注意できる青汰を尊敬してた。
ありがとう。
怜於
俺のことが好きすぎて3年の時に俺の家の近くに引っ越してきた怜於くん。
一緒に温泉行ったり、カフェ行ったり、ライブに行ったり、韓国行ったり
えーー ほぼ付き合ってました。
真面目な話、
裏幹部としてチームのことを考えてくれて、チームの仕事や筋トレ、やるべきことを忠実に隙なくこなしていた怜於だからこそ、ピッチ外でも全力で楽しめたと思う。
怪我に悩まされた4年間だったと思うけど、尊敬しかないよ。
ありがとう。
良介
ブログの中で何回も登場してきたから、短めに書きます。
昇格が決まった東経戦の「愛してる農大」
良介と一緒に歌えて幸せだった。
ありがとう。
建悟
まずは、アスルクラロ沼津内定おめでとう!
みんなからコイントス係とか、キャプテンマーク係とか、いろいろ言われてきたけど、
1年間キャプテンお疲れ様。
(俺は全くそんなことは思ってないけどね、、、)
建悟がキャプテンで本当に良かった。
関東リーグに絡めなった俺が、今、悔いなく、やり切った気持ちでこの引退ブログを書けているのは、
建悟が1年間キャプテンとしてピッチで戦い続けて、農大を関東2部に導いてくれたおかげだよ。
ありがとう。
これからも頑張れ!
同期
4年間
きつい時、苦しい時、みんなが横にいたから頑張れた。
これ以上ない、最高の同期と出会えて本当に良かった。
これからもよろしく。
そして一生、美味い酒飲もう
家族へ
17年間、サッカーを続けさせてくれてありがとうございました。
毎日の送り迎え、洗濯、食事、感謝しなきゃいけないことを挙げたらきりがないです。
小さい頃は家に人工芝を敷いて、ゴールも張って練習場も作ってくれた。
大学に入っても自分のわがままを聞いてくれて、一人暮らしまでさせてもらった。
ありがとうございました。
これからは自分が成長させてもらった分、恩返しできるように頑張ります。
これからもよろしくお願いします。
以上で引退ブログを終わります。
明日は
学連としてチームを支え、試合ではキレのあるドリブルと格闘技で相手を翻弄。
新大久保での終電ダッシュの速さで彼の右に出る者はいない。
榮村駿太のブログになります。
乞うご期待。
〈思い出のショット〉