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2023

4年引退ブログ〜中島陸〜

「人生一回」中島陸



まず初めに、農友会サッカー部に関わる全ての皆様、いつもご支援を頂き、ありがとうございます。

今年度主将を務めさせていただいた、中島陸と申します。

100周年という長い歴史の中で、節目を迎える年に主将を務められたこと、大変光栄に思っています。

今年度の結果といたしましては、関東3部リーグを7位で残留という結果に終わりました。

しかし、部自体が良い方向に傾いていることを感じることができた1年間でした。

これから農友会サッカー部は必ず強くなりますので、これからも農友会サッカー部を応援していただければ幸いです。

 

 

 

プロテインは1日8杯、鶏胸肉1日1キロ、デザートは絶対あんこ

トレーニングルームには毎日3時間、試合前日にクーパー走。

 

脳筋マンこと佐土明也選手から紹介に預かりました。

 

明也、俺そんなこと言ったっけ?でもそれが活力になってたなら嬉しいよ。

 

 

ということで本題に入ります。

最初で最後の卒業ブログ、自分の今までのサッカー人生を、その時自分が思っていたことを、長々と書きます。後にも先にもない機会だと思うし、10000字越えの超大作になってしまったので、暇がある時に暇つぶしにでも最後までお付き合いいただければ幸いです。

 

 

「人生一回」

 

 

小学6年生の時に卒業間際によくある、卒業まであと○日のカウントダウンに1人1言好きな言葉を習字で書いてそれを毎日めくっていきましょう。なんていうことがあった。

その時に書いた言葉が

 

 

「人生一回」

 

 

なぜその言葉を書いたのか、何を思って書いたのかは全く覚えていないけど

それ以降、何かあるたびにこの言葉を思い出し「人生一回」だから自分が「納得」ができるようにどんな出来事があっても「反骨心」を燃やした。

 

自分を客観的に見たら挫折が7割、成功が3割くらい。

 

そんな「人生一回」の15年間のサッカー人生が2023.11.18の慶応戦で、幕を閉じた。

 

今思えば本当にいろいろなことがあった。自問自答を繰り返し続けた15年間を振り返ってみる。

 

幼少期、バットにグローブをもって将来は野球選手になると思い込んでいた。小学1年生の冬にスポーツがしたかったが、野球は3年生からしか入団できなかった。

 

その時に両親から「サッカーなら1年生から入れるらしいで」と言われたことがきっかけで体験に行った。

 

ボールを蹴って走っているだけなのにものすごく楽しくてみるみるサッカーの虜になった。

 

気が付いたら見事にサッカー少年になっていた。

 

これがサッカーとの出会いである。

 

それからは毎日のようにボールを蹴り続け、小学生では県トレセンに入れなかったが地区トレセンに選ばれるくらいにはなれた。

 

 

中学年代、兵庫県の街クラブのzarpa.f.c.にセレクションを経て入団した。

 

1年生のころに学年のキャプテンに任命されて、試合にも出て順調だと思っていた。

 

しかし2年生、実力不足でベンチ。試合に出られなかった新人戦でチームが負けた後、ピッチ外で荷物の置き方が汚かったことや、1番最初にピッチを後にしたことなど、いろいろ積み重なって最後の集合でコーチから

 

 

「そんな奴がキャプテンやから弱い、歴代最低キャプテン」

 

 

といわれた。衝撃的だった。

10年間の中で俺が歴代最低か、と。

 

そんなことを思っていたのも一瞬。プチ反抗期だった自分はそれを言われた1時間後には

 

「ベンチの俺に言うてどーすんねん」

 

と思っていた。

 

今だからわかるベクトルが違う。

 

でも、この出来事をきっかけに少しずつ1人の選手としてのあり方を考えるようになった。

 

まず、コーチから言われた、荷物を綺麗に置くこと、最後までピッチに残って忘れ物を確認することを行うようになった。すると不思議と周りをみて考えて動けるようになってきた。

 

2年生の終わり、少しずつまた試合に出られるようになった。

 

でも、3年生になっても、関西大会で最初の試合でパフォーマンスが悪く、感情的になって周りが見れなくなり、試合の後そそくさと下を向きながらロッカーに向かった。

試合後のロッカールームでまた言われた。

 

「歴代最低キャプテン」

 

納得である。

 

それから残りの関西大会は全試合キャプテンでありながらベンチ。街クラブではあまり聞かないような気がする。チームが勝っても少しも嬉しくはなかった。

 

 

試合後の挨拶の時に自分が試合に出ていないからと言って「俺出てないし挨拶して」とゲームキャプテンをしていたやつに挨拶をしてもらった。

 

父親から言われた「なんでお前が挨拶せーへんかってんキャプテンやろ」

その通りだ。

 

そこら辺で、下を向いていても仕方ないと吹っ切れた。それ以降は試合に出てなくても挨拶し、しょーもない素振りも見せなかったつもりだけど、周りから見たらどう見えていたのかはわからない。

 

最終的には、全国大会に出られなかったけど、全国に出られなかったチームで行われる西日本大会、インターシティカップで準優勝、累積で出られなかった試合以外全試合フル出場することができた。

 

卒団する時にコーチから頂いたメッセージの中に

 

 

「俺の次の次くらいにいい主将になったな」

 

 

と書かれてあった。冗談半分だっただろうけど、すごく嬉しかった。

少しは成長することができたのかなと。

 

 

今の自分が形成される上で、人として、選手として、メンタル的にも劇的に成長することができた「納得」のいく中学の3年間だった。

 

 

高校、大阪桐蔭高校に入学。と同時に通うことができなかったためスレッドリバー収容所に収容された。(寮に入寮した)

 

 

携帯所持禁止、門限20時など、様々な規則のある中での生活だったけど、実家で暮らすよりも楽で、楽しくてホームシックになんてなったことがない。

 

 

高校1年入学前から練習に参加させてもらった。グランドが山の中腹にある為、荷物はバスに積んで選手は坂道を上がり続ける通称”山ラン”があった。

 

初めて走った時に

 

「やばいところに来てしまった」

 

それくらいめちゃくちゃきつかった。

 

入学当初、中学でもベンチだった自分は当然Aチームで練習できるわけもなくCチームだった。Cチームでも出ることができなかった。

 

練習でミスをした時にコーチからは

 

「お前なんかCでも使えへんわ、ぼけ、かす」

 

 

今そんなことを言ったらハラスメントで訴えられるほどの威力だった。

 

 

でも中学の時に言われた「歴代最低キャプテン」より衝撃的な言葉を言われることはなかったから、見返してやる。そう思ってプレーし続けた。

 

Cチームでも出てない自分がなぜか国体のラージメンバーの中に選ばれた。

 

周りのレベルが高くて自分だけ2つくらい下の次元でプレーをしていたけど、コンスタントに呼んでいただけるようになった。

 

技術的に太刀打ちできる要素はなかったから、モチベーターとして対抗しようと考えた。

いろんな選手とコミュニケーションをとってがむしゃらに声を出した。

 

ミニ国体の20名に選ばれた。

 

「え、いいんですか?」

 

そんな感覚だった。

 

でもその頃には、高校の規律が厳しかったこともあって、中学の時に仕込まれたように荷物の整理やチームの荷物を運ぶこと、最後まで残ってロッカーの掃除をしたりすることが自然になっていた。

 

媚を売るようだったけど、多分評価されているのはここだろうなって思った。

 

中学年代に口酸っぱく言われたピッチの外での立ち振る舞いがピッチ内での評価にも繋がった。ピッチの外でモチベーターとして声を出すことがピッチ内での評価につながった。

 

本国体のメンバーにも入ることができて、おまけに試合にも出ることができた。

 

すごくうれしかった。中学生の時には一緒にプレーするとも思ってなかった選手たちと同じピッチで同じ目標に向かってプレーしていた。

 

それからチームに戻ったらCチームではスタメンで出られるようになっていた。

 

徐々に序列が上がった。たまにAチームでの練習に入れてもらえることもあったりしたが選手権のメンバーに入ったりすることはできなかった。

 

でも、中学でも出てないやつが国体にも入れてAチームの練習にも入れてもらえてすごく「納得」のいく1年間だった。

 

2年、1月のシーズン開幕は、Çチームだったが、試合に出ることはできた。

 

3月ごろの新チームの遠征では怪我人が多かったこともあり、Aチームで試合に出場することができて、そのままプリンスリーグも開幕スタメンで出ることができた。

 

怪我人が復帰してくるにつれて試合に出ることができなくなったけど、そんなもんだと思っていた。

 

もともとへたくそな奴が、試合に出られなくなったくらいでメンタルがぶれるのは、ばかげていると思っていたから。

 

ベンチで見守る時間も多かったけど、モチベーターとして声を出し続けた。

練習の時も、アップの時も、声をかけ続けた。

 

何度か試合に出るチャンスももらえていたし、選手権予選のピッチにも立つこともできた。

 

自分の中では出来すぎた1年間だった。

 

 

3年、当たり前のように試合に出てチームを勝たせると思っていた。

 

シーズン始めプリンスリーグに出ることができていた。

チームを勝たせれなくてベンチになった。

 

そのタイミングでのインターハイ予選開幕。

気がついたらCBからFWにコンバートされた。

悔しかったはずなのに、ベンチから大声を出していた。

 

勝たないと次に進めなかったから。

出る出ない関係なく、何よりチームを勝たせたかったから。

 

間違いなく人間として選手として成長していた。

 

決勝リーグでチャンスがまわってきた。

スタメンで出ていた選手が脳震盪で出られなくなった。

 

その時、ほとんどやってなかったボランチでの出場。

 

リーグ戦の時0-4で負けた相手。

成長を示すためには絶対勝利が条件だった。

 

結果的に自分が出て2-0で勝利。嬉しかった。

 

でもインターハイ出場には届かなかった。

 

その次の試合で自分のクリアミスで負けた。

 

不思議とあまり悔しさは込み上げてこなかった。

やれるべきことはやれたと思ったから。

 

そこからも試合に出たり出なかったりを繰り返した。

 

選手権予選を控えた夏明け

 

最前線からボールを追いかけていた,

ボランチだったのにまたFW。

 

後ろでは使えなかった結果、前線にコンバートされた。

 

それでもショックを受けることはなく

 

新たな自分の可能性を探るチャンスだと思って取り組んだ。

 

選手権予選では10番を任された。

 

自分が決定的なヘディングをポストにあてて外してベスト16敗退。

 

でも後悔なんて全くない。

 

結果に対しての悔しさはあるけど、後悔ない。

 

やり切れた高校生活、自分に対してまだまだ可能性を見出だすことができた。

人間としても選手としても大きく成長することができた。

 

 

そして迎えた大学生活

 

 

2月の初めから活動に参加をさせてもらった。

 

人生で初めて入部当初からトップチームに絡むことができた。

 

練習では、やれないこともないという感覚だった。

 

CBで出場させてもらった練習試合。

関東学院大学、神奈川大学、産業能率大学、青山学院大学

 

全ての試合で4失点以上、最大8失点くらい。4試合合計で24失点した気がする。

 

こんなにレベルの差があるのかと思った。

 

それでもいつも通りショックなんかない。自分は下手くそだから。

 

むしろこんなレベルでサッカーができるとめちゃくちゃ燃えてきた。

 

と思っていた矢先

 

 

新型コロナウイルスで活動停止

 

一旦心の火が消えた。

 

6月からは家が近い人達の数人で砧公園での練習が始まった。

 

思っていた大学生活じゃない。面白くない。

 

やっとチームとしての練習が始まった頃、サッカーへの熱が薄まっていた。

 

大学のグランドが使えなかったから、

色んなところで練習があるたびに

自転車で1時間くらいかけて行った。

 

なんとなく練習をしてなんとなく帰る。そんな毎日。

 

そんなことを繰り返していたら、当時監督だった、三浦さんに

 

「なにすかしてんの?すかすな」

 

と言われた。

 

気持ちが読まれすぎてて、そんなことないと思い込んだ。

今考えると、めっちゃくちゃすかして練習していた。

 

そんなやつが公式戦に出られるわけもなく、ずーっとバックアップメンバー。

 

おかげさまでマグネットの準備、ボードの準備、アップのボールの置き方

そのあたりがめちゃめちゃ上達した。

 

時が経つにつれて、上級生が熱量を持って取り組む姿勢を見て気がついた。

俺、めちゃめちゃすかしてサッカーと向き合ってるな。

 

そう思ったのは1年生の冬、シーズン終盤だった。

 

1年間で気づくことができてよかった。

 

 

2年目に差し掛かった時には大学のグランドが使えて

トレーニングルームも使えるようになった。

 

ヒョロヒョロだった体を大学サッカーで戦える体にすることを目標に

筋トレに励んだ。

 

気持ちゴツくなってきた。

 

でも2年になっても、ずっとバックアップメンバー。

 

気がついたら1年生で入学してきた菅原が試合に出ていた。

 

悔しかったけど、その結果に納得していた。

自分が試合に出られるレベルでないのは重々承知していたから。

 

取り組んでいたことに間違いはないと思っていたけど、

怪我が多かった。

 

両足首の捻挫で合計3ヶ月くらいはサッカーができなかった。

 

 

練習に入ってもなかなか良いパフォーマンスが出せない、

悩みまくりながらプレーしていたら余計にわからなくなった。

 

 

割り切って筋トレをやり続けて、やっと大学レベルくらいの体つきになったけど

しまいには後期に登録の30人のメンバーから外れた。

 

2個上の先輩たちがものすごい勢いで調子を上げてきたことによって、

登録から外されてIリーグのメンバーになった。

 

悔しかったけど、これが残りの大学生活の転機となった。

 

悩みまくりながらプレーをした結果、自分の中で答えが出た。

 

 

「CBとして自分が成長できる未来が見えない。」

 

 

色々模索しながらプレーした結果、その答えに至った。

 

ボランチとして勝負がしたいと思った。

そのことを先輩たちに相談すると

 

「言いに行くのは絶対にやめた方がいい、干されるぞ」

 

って言われたけど、ここで言いに行かなかったらサッカー人生自体に後悔が残ると思った。

 

そんなときにIリーグ登録になったことによって指揮を執るのが現監督の児玉さんになった。

 

このタイミングしかないと思って、話をしに行った。

 

 

「自分自身、CBとしての伸びしろを感じない、ボランチをさせてほしい」

 

 

単刀直入に思っていることを伝えると、話をしっかりと聞いてくれた。

 

でも児玉さんから最終的な答えは

 

「どっちもできるようになればいいと思う」

 

といわれた。

 

「あ、はぐらかされて終わったな。」

 

と思っていたけど、次の週の練習から

 

自分のマグネットがボランチの場所にあった。

 

ここで結果を残すしかない。大チャンス。

 

迎えたIリーグ

vs東洋大学

 

ボランチとして初スタメン

結果は0-0

課題は多くあったけどCBでプレーしていた時とは違う感覚。

なかなか良い感覚でチャンスをつかめそうな期待感が自分の中ではあった。

 

それからもIリーグでプレーする中でボランチとして起用してもらえた。

 

シーズンが終わって新チームとしての天皇杯予選。

 

vs中央大学

 

ベンチに座っていた。

 

サッカーをプレーするうえで

ただがむしゃらにプレーしていたから

パフォーマンスが安定しなかった。

 

「相手を見て考えてプレーすること」

 

が足りていなかった。

 

毎日の練習で何ができて何ができないのか考えた。

 

徐々に自分を理解して何をするべきなのか明確になってきた。

自分一人でプレーするわけじゃないからできないことは任せればいいんだ

ってことに気が付いた。

 

 

迎えた3年目

監督が児玉さんに代わって正直チャンスだと思った。

 

シーズンの序盤からボランチとしてスタメンを張ることができた。

 

考えながらプレーすればこんなに成長できるんだってことを感じられた。

 

パフォーマンスも安定して出せるようになってきた。

 

お、いい感じやぞ。って思っていたら

 

都リーグ第二節

vs東京経済

 

ヘディングの着地点に相手の足があってやってしまった。

足首が

 

「くい」

 

ってなった。

 

捻挫だ。調子が良かっただけに焦った。

 

次の試合だけ休んで、復帰したけど痛みはひかなかった。

 

プレーもあまりいいものでもなかったけど

こんなにコンスタントに使ってもらえたことがなかったから

そのまま試合に出続けた。

 

結局、山梨学院との試合でもうひと捻りしてプレーができなくなった。

 

悔しかったけど、自分が活躍するよりチームの勝利が第一優先。その気持ちは変わらないからいつも通りチームの応援を必死にやった。

 

足首の怪我からは何とか復帰することができた。

 

数週間プレーした後、次は腰が

 

「ぴきっ」

 

ってなった。

 

高校の最後に腰椎分離症になったからまたそれかなって思った。

高校の時は1か月くらい出直ったしまたそれくらいで復帰できるやろなって思った。

一応MRIを撮りに行ってみたら

 

「腰椎椎間板ヘルニア」

 

だった。

 

経験がなかったからどこまで時間がかかるかわからなかった。

痛みが出ない人もいれば出る人もいるみたいなケガ。

 

正直すぐ治るだろうと思いながらリハビリをしていた。

 

怪我が治るまでは、自分ではなくチーム最優先。

プレーができないからピッチの選手に頑張ってほしくて感情的になることもあった。

試合でプレー中の詩音君と応援席から口喧嘩することもあった。

 

でもそれくらいチームとして勝ちたかった。

その中で自分が出られることが一番だけどそんなことはどうでもよくなっていた。

 

でもすぐに治ると思っていた怪我自体は全く痛みが引くことはなく、

シーズンが終わった。

 

ふとした時に自分が考えていることとは裏腹にこんなことを思っていた。

 

 

「自分は何をしているんだろう。」

 

「何のためにここにいるんだろう。」

 

「プレーができないのにここにいる意味はあるのか。」

 

全部本音。

 

 

でもそんなときに児玉さんから来年のキャプテンにしたいという話をもらった。

今の自分にそんな言葉をかけてくれる人いるんだなと思ったけど二つ返事で

 

 

「やりたい」

 

 

ということを伝えた。

 

色々あったけど最終的にキャプテンをさせてもらえることになった。

(色々の部分は聞いてくれたら応えるので聞いてください。書き出したら終わりません)

 

そんなこともあって、ここで折れたら自分じゃないなって言い聞かせてなんとか持ち堪えた。やめたら、絶対に後悔しか残らないし、そんな選択肢は元々自分にはなかった。

 

 

そんな時に練習参加で来てくれていた、かわしくんに手術という選択肢をもらえた上に病院まで紹介してもらえた。

 

 

すぐに病院に行ってすぐにでも手術がしたいという意思を伝えた。

 

 

昨年末に手術をすることが決まった。

 

みんなが遊んでいるのはうらやましかったけど一人ベッドの上で過ごした。

 

早くても完全復帰できるのは3か月後。

関東リーグが始まる直前くらいだった。

 

でも不思議と不安はなかった。

いままでもなんとかなってきたから今回もって思っていた。

 

 

手術は無事に成功して新年を迎えた。

 

実家に帰っていた時に動けもしないのに食べ過ぎて東京に戻ってきた時には

 

体脂肪21%。

 

さすがにやばさと焦りを覚えた。

 

徐々に復帰して動けるようにはなってきているけど全然パフォーマンスが戻ってこない。

 

 

動けなくてチームの力になれないのは悔しかったけどチームのためになることを模索しながら取り組んだ。

 

それもこれも「歴代最低キャプテン」にならないために。

 

他の幹部たちはチームのために自分のやるべきことを全うしているのは目に見えた。

 

後輩にめちゃくちゃアプローチしに行ってくれるやつもいれば

 

毎週チームのために水曜日の20時から学連のミーティングに出てくれるやつもいる。

 

 

今までチームのことを考えていろいろしてきたつもりだったけど、このままでいいのかっていう気持ちはあった。

 

考えてもなかなか出てこないことは自分でもわかっていたから、

練習試合とかの時には1番最初の試合から最後の試合までいる。

思ったことを伝える。っていうことをやった。

 

それが良かったのかも分からないけど、自分の中ではそれで納得している。

 

ここでも役割分担ができているから自分のやるべきことを理解することが大事だと勝手に解釈した。

 

気がついたら関東リーグが開幕。

 

個人的なパフォーマンスは全く上がらない。

 

メンバーに入れる訳もなくバックアップメンバーだった。

 

それでもチームが勝ってくれればよかった。

アップの時は声を出し、応援の方に行っても声を出し続けた。

 

体は徐々に戻ってくるけど試合に出られるほどではない。

 

そう感じていたけど、ベンチに入った。

 

その時正直に感じていたことは

 

「今の俺が出るくらいなら他のやつが出たほうが勝てる」

 

だった。

 

メンバーに入っておきながらものすごく自分勝手なことを思っていた。

 

 

それでも監督からの期待感は常に感じていたし、応えたい気持ちもあった。

試合に出た時はもちろん全力で行くことはもちろんだった。

 

ベンチからも大声を出してチームを鼓舞した。

 

元々俺にできることはこれしかなかったなって思うことができた。

 

 

怪我から復帰してから初めての公式戦だった前期の慶應戦では

体が動かなさすぎて特大アフターの相手の足にスライディングをかましたりした。

 

 

でも4年生に上がったタイミングから始まった就職活動とサッカーの両方をしていく上で、

 

「なんで俺ってサッカーしてるんやったっけ?」

 

ってことをこの時期くらいから考えるようになった。

みんなめちゃくちゃ戦ってるのにめっちゃ自分勝手。

 

なかなか調子が上がってこないこともそんなことを考える原因の一つだった。

でもグランドに行ってみんなを鼓舞しながら練習する毎日。

 

「なんでこんなことしてるんやろ」

 

めちゃくちゃ考えた。

 

結局出た答えが

 

 

「みんなとサッカーをして過ごす時間が楽しい」

 

 

なぜサッカーを始めたのか。楽しかったから。ただそれだけ。

サッカーをやる理由なんてそれだけでよかった。

一周回ってそこに辿り着いた。

 

 

そうやって思ったのが夏すぎくらい。

また1-2週間の怪我をしている最中だった。

 

 

それからは自然と調子が上がっていった。

 

サッカーを楽しむ気持ちが1番大切だった。

 

完全にパフォーマンスが戻り切ることはなかったけど、

残りの5節はフル出場させてもらえた。

 

こんな自分を主将として認めてくれたチームの為に

残留は絶対条件だった。

 

最終節まで気の抜けないギリギリの戦いだったけど勝ってなんとか残留できた。

 

本当に良かった。

 

父親からは「最後くらいもうちょい走れんか」

と言われたけどこれが今出せる自分のベストパフォーマンスだった。

 

 

 

小中高大、どのカテゴリーでもいろんな人に助けられながら

自分の中で全力で取り組んで、失敗もしながら成長してこられた。

だからこそサッカー人生に後悔なんて微塵もない。

 

サッカーと出会えて本当に良かった。

サッカーを通じていろんな人と出会えて本当によかった。

 

~人生一回のサッカー人生、大満足~

 

 

 

 

 

 

お父さん、お母さん、心

 

サッカーをするきっかけを与えてくれてありがとうやけど、ほんまに小学校の時がサッカー人生の中で1番サッカーが嫌いでした。やらされてる感満載。今となってはほんまに感謝しかないかど、当時は苦痛でしかなかった。嫌々やってたやろうけど、しっかり向き合ってくれてありがとう。お父さんに怒られた時はお母さんがなだめてくれたり、サッカーには無関心やけど勉強と卓球頑張ってる心がおったり、なんだかんだでバランス取れてていい環境で育ててもらえたなって思ってるよ。

自分の今の目標は今まで2人にやってもらったことを将来子供ができた時にやってあげられるようにこれからほんまに頑張っていこうと思ってます。

妥当父親❤️‍?

 

 

太子FCjr、zarpafc、大阪桐蔭高校のスタッフの方々

 

皆様のおかげで今の自分があります。

 

太子FCjrのコーチの皆さん。

 

本当に伸び伸びとサッカーをさせてくれて、自分勝手に自由気ままに成長させてくれてありがとうございました。丸尾コーチ、井川コーチ、三浦コーチ、ボランティアでコーチをしてくれていたのにあんなに真剣に向き合ってくれて本当に感謝しています。

 

中学の時に西澤コーチと重田コーチの両方から歴代最低キャプテンって言われたことは今でも覚えています。でもそれがあったから何を言われてもへこたれることはなかったし、厳しい言葉をかけてくれたこと、本当に感謝しています。今では西澤コーチの次くらいにいい主将になれたかもしれません。

 

金正コーチ、中垣コーチ、永野監督

 

人間性の部分を大切にする育成方針、本当に桐蔭に入学できて良かったです。サッカー的な部分も人間性の部分においても桐蔭の3年間でものすごく成長することができました。

金正コーチの思ったことをなんでも言ってくれる感じと、中垣コーチのまめなところ、監督の目を見て語りかけてくれる熱い姿勢、今となっては全てにおいて、感謝しかありません。

 

 

東京農業大学のスタッフの方々

三浦さん

まず、農大にスポーツ推薦で入学できる機会をいただけたことを本当に感謝しています。1.2年生の時はなかなか結果を出せなくて、期待に応えられなくて申し訳ございませんでした。でも、あの時三浦さんに言われた言葉を胸に頑張ってくることができました。ありがとうございました。

 

児玉さん

2年生の時に自分勝手にボランチをやりたいって言ったことを受け止めてくれて、コンバートしてくれて、ありがとうございました。あれがなかったら今頃どうなってたかわかりません。3年生からは、ずっと信頼し続けてくれて、何回も怪我して、その度に待ってるぞって言ってくれて、そんな大した選手でもないのにそんなこと言ってくれたこと、本当に嬉しかったです。

なかなか勝たせることができなくて申し訳ない気持ちでいっぱいでしたけど、最終的に残留できたことは児玉さんの力だと思っています。本当にありがとうございました。

 

蛭子さん

熱く選手と向き合ってくれる姿勢、大好きです。2年という短い時間でしたけど、一緒に同じ目標に向かって戦えたこと、すごく楽しかったです。合宿の時に悩んでる自分を見て、話しかけてくれて、少し吹っ切れた部分もありました。真正面から向き合ってくれたこと、本当に感謝しています。

 

徳さん

リハビリにいる時、ずっと声をかけてくれて気にかけてくれてありがとうございました。

結構愚痴ることとかも多かったけど、その度に頑張ろうよって言ってくれて嬉しかったです。実は、言ってなかったけど、しっかりした復帰走、1回くらいしか走ったことありません。

 

砂川さん、秋吉さん

チームを裏から支えてくれて本当にありがとうございます。

たまにきてくれて、かけてくれる声がいつも力になっていました。

 

 

先輩方

中学にはめちゃくちゃ憧れてた哲平君がいて、高校にはオフの日に遊んでくれる剛さん、帰省したら毎回のように会ってくれるこうせいさん、りょうたろうさんがいて、プロで活躍してる西矢さん、勇大君、ゆうたさんがいて。大学にはずっと気にかけてくれる藤井君や貫太郎君がいたり、ホームの試合毎週のようにきてくれる琢夢君がいたり、キャプテンなったらしいな、応援してるぞって連絡してきてくれる陸生くんがいたり、全社で優勝してる直人くんがいたり、ドイツで大関君や詩音くんが頑張ってたり、プロの世界で丸君、かわしくんが頑張っていたり、山下君がいまだに運営しにきてくれていたり。

本当にすごく刺激に感じながら、頑張ることができました。

ここでは書ききれないほどのいい先輩達に巡り会えたこと、本当に感謝しています。

 

 

後輩

響、山田

高校から4年間ありがとう。

山田に関しては寮の時毎日一緒におったし、色々してくれてありがとう。

アイリーグの学芸戦のあとに言ったように、泣くほどお前はまだやれてない。もっとできることがあるはず。

響、ラスト1年、数試合一緒にピッチに立てたことほんまに嬉しかったよ。

お前らならまだまだもっともっとできるはず。

残り2年しかない大学生活に悔いを残さないように毎日を大切に色々悩むこともあるやろうけどそんな時は頼って。ほんまに頑張れ。

 

菅又、雅史、竜太

レビランドメンバーです。ありがとうな。

菅又、雅史はこのブログを読んで感じてくれたと思うけど、俺は雑草魂満載の選手です。

お前らの気持ちはものすごく分かるからめちゃくちゃ応援しています。

なんかあったらいつでも連絡してきて。レビランドで待っています。

竜太、お前は他にベクトル向けずに頑張れ。

 

こんだけしか書けないけど、後輩全員に期待しています。

とにかく怪我には気をつけて悩みながら葛藤しながら成長し続けてください。

俺に話したいやつなんていないやろうけど、なんかあればいつでも相談に乗ってください。

 

同期

みんなには本当にめちゃくちゃ感謝しています。

入学当初、尖りまくってた俺はみんなと友達になれるなんて思ってませんでした。

それでも時が経つにつれて本当にいい奴らばっかりってことに気がついて、今となってはみんなのことが大好きです。

 

耕輔

とにかく7年間ありがとう。お前が頑張ってることは常に1番見ていたし、成長していく姿をみるのが自分ごとのように嬉しかった。寮の時は何回部屋を出禁になったことか。よくだる絡みしまくったなーーー大学に入ってからも色々愚痴ったりめんどくさかったと思うけど、その度に付き合ってくれてありがとう。ほんまに感謝してる。これからもよろしくな。

 

 

 

 

 

これで今年の4年生ブログは終了させていただきます。

今後の4年生の活躍を応援していただければ幸いです。

今年1年間、応援していただき、誠にありがとうございました。

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